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new DOCUMENTARY 狩野嵩大

ある日、群馬の実家からリンゴが届いた。

立派なリンゴが、それも大量にである。

何故、みかんでは無くリンゴなのか。まず私はリンゴとみかん、どちらが好きかと言えば、どちらも好きではない。嫌いというわけではないが、買ってまでは食べない。そもそも、果物というものをどういうタイミングで食べたらいいのか、一人暮らしの男子大学院生にとっては皆目見当がつかない。飯といえば、コンビニ弁当を一人もそもそと義務的に食べるばかりなのだ。

まずリンゴを食べるにあたって、剥く作業に取りかからねばなるまいと思い、久方ぶりに包丁を握った。

いわゆる剥いてある状態の三日月型のリンゴ片にするためには、まず皮を剥いてから半分に割るべきか、それとも皮を剥く前に三日月型の状態まで持って行くか、それがわからない。途中までは、まず皮を剥くという計画を持って、リンゴと向き合った。ただ、なかなかうまく剥く事ができない。そこで急遽、三分の一くらいまで剥いてしまったリンゴを割り、三日月状にしてから皮を剥き、芯を取るという計画に変更した。どうやら、それが正解だったらしくうまく剥けた。

切り分けたリンゴ片を皿に丸く並べ、いざ食べ始めた。これが非常にウマい。たっぷりと蜜をたたえたリンゴ片はジューシーであり、口の中に広がる酸味は私の中に溜まりに溜まった毒という毒を浄化するが如し勢いであった。

半分以上食べた。もうハッキリ言って食べたくない。思った以上に腹に溜まるのである。

タバコを一本吸う。ウマい。先ほど、リンゴの酸味によって浄化されたかに思われた毒がこれ程までにウマいとは。正直、リンゴよりウマい。

灰皿でタバコを揉み消す頃には、ちゃぶ台の上のリンゴ片は茶色く酸化し、一層食欲を減退させた。

そんな時、垂れ流されていたニュース番組から、リンゴから何ちゃらベクレルが検出されたどうこうというニュースが聞こえて来た。

もう一度、リンゴを見た。皿の上には茶色く酸化したリンゴ片が置かれ、台所に置かれたビニール袋の中には数十個のリンゴが放置されていた。

 

リンゴは冬にもかかわらず、みるみるうちに腐った。

腐ってしばらくして、芳醇な香りを漂わせるようになってからようやく燃えるゴミ袋に入れた。

 

さて、私がリンゴを食べきれなかったこと、ということについて考えねばなるまい。

さもなければ、この授業の課題の一つであるオンラインレポートに、つらつらと個人ブログに書いても誰も読まないであろう文章を書いた事によって、プロジェクト科目ニュードキュメンタリーって大丈夫か?というか、東京造形大学って大丈夫か?という由々しき事態を招くことになってしまう。

私が、この一年間、ニュードキュメンタリーという授業を通して考えることになったこと、それは「文脈を与える」という行為である。

都内を流れるドブ川、雨樋、雨、食べ物、花粉、そして福島、日本。ここには震災によって引き起こされた原発事故による「放射能」という文脈がある。

震災が起きる前に出版されたキノコの写真集とそれ以後のものとでは、明らかに撮影者の「文脈を与える」意図が違う。そしてこれは見るものにとって、その作った人の「意図」に関わらず無慈悲に見られてしまうということである。文脈を与えるという行為は、何も作った人だけの特権ではないからだ。これはドキュメンタリーもフィクションも映画も小説も随筆もイラストも彫刻も例外ではない。

あの壮絶な津波を経験された避難所で、ニュース番組に疲れているであろう子供達の為にスタジオジブリ作品のDVDを送るとしよう。さて、その中にある『崖の上のポニョ』のDVDを、果たして私はそのまま送ることができるだろうか。勿論、『崖の上のポニョ』という作品は今回の震災に何の関係も無い。ただ、私は送れない。何故なら、『崖の上のポニョ』に津波という文脈をすでに与えてしまったからである。

世の中で大きな出来事が起きると、多くの人がこうしたことと向き合うことになる。ただ、大きな出来事が起きたから、文脈を与えられるようになったわけでは決して無い。私たちはいつ何時、いかなる物にも文脈を与えることができる。

飛行機の中で見る『クリフハンガー』は映画館で見るよりも面白く、ワイズマンの『ボクシングジム』を観た後に聞くサンドバッグを叩く音は以前よりも大きいのではないだろうか。

私がリンゴを腐らせてしまったことどんな文脈があるだろうか。そこには多様な文脈がある。

そして、ここにリンゴのくだりを書き記すことによって増える文脈もあるだろう。私という人を直接知っている人と知らない人とで、また違う文脈があるだろう。

私の住むアパートに入ったヒビ割れはいつからあったものなのか。大学の窓の無い部屋で感じる圧迫感はいつから感じるようになったんだろう。

車に残っているガソリンの量を意識する。携帯の充電はあとどれくらい残っているだろう。

ゴミ袋の中で腐っているリンゴからする腐臭は、こんなにも臭かっただろうか。

 

実家からまた何か届いた。下仁田ネギである。

まだ泥がついたままの新鮮なものだ。

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