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わたしのニュードキュメンタリー。 内山 歩

私にとってのニュードキュメンタリー。

 

ニュードキュメンタリーってなんでしょう。

 

震災前と後では、随分変わった。でも、正直全然変わっていない部分もある。

ナン・ゴールディンが定義した「拡大家族(Extended Family)」というモノがある。ここでの「拡大家族」とは、自分が選びとった家族。何らかの感情的な絆や共有するもの(記憶・経験など)で結びつけられ、お互いの一部を共有している者たちのことである。

 

震災後に出た雑誌『広告』にでてきた「シェア」という言葉。100%でなくても、30%でも80%でも「家族」といえるのではないかといった話や、「あの時」、「あの場所」にどこにいた?と聞けば、多くの人が震災のことを思い浮かべることになるというような話が載っていた。

 

「拡大家族」と「シェア」(共有)。強引かもしれないが、私は近いと思った。

 

東日本大震災時のメディア(テレビ・ラジオ・twitterなどからの写真、映像など)から、情報を、または「悲しい」「怖い」・・・様々な感情を、そして議論や批判も、みんなでシェアした。意識的にシェアしたがったり、無意識的にシェアしてしまったりで、兎に角情報と名のつくものは非常に溢れていたように思う。そこには、正しい情報も間違った情報もあって、色々なレベルで(高いとか低いとかではなく。)、全方向で「拡大家族」化されたように思う。

 

日本をひとつに!などというキレイな感じではなくて(批判ではないが)、ネット上のコミュニティ(つながり)や現実のつながりが日本全体でまじりあっていたように思う。

 

阪神淡路大震災の時を思い出してみる。私は6歳で現在よりインターネットは発展していなくて、私に入ってくる情報はテレビだけだった。(私の個人的記憶では。)私は阪神淡路大震災後、確かに何度も震災の様々な映像や写真などを連日見ていたはずなのに、代表的な場面、場面しか思い出せない。単に情報量が少なかっただけなのだろうか、いやいやそんなことはないと思う。では、はたまた忘れているのか。どちらにせよ日々の生活の記憶の中に埋もれてしまっていたように思う。毎年、1月に流される映像などで記憶に刷り込んで、記憶を補っていただけで本質的な意味での記憶はなくなっていた。

 

私がもし震災にあったとするならば(こういう例えの「もし」はいやだけど。)、わたしは写真を、アルバムを探すだろう。

誰か大切な人が亡くなった時、その人のことをずっとずっと覚えていたいけれど、だんだん思い出す時間が長くなって、どんどん記憶も曖昧になってくる。(村上春樹の「ノルウェイの森」の冒頭にそのようなこと出てくるのだが。わたしはハルキストではないのだけれど。)記憶の曖昧な部分を思い出したり、誰かに話したりする時に無意識的に補正したりして、しっかりとしたモノにしようとする。事実とは、遠くなってしまったとしても、強化しようとする。

でも、アルバムにおいての写真は違う。(・・・気がする。私には。)見る側の気持ちひとつで、その写真は意味を違うものとするときもあるけれど、間違いなくカタチはその人である。思い出せないほくろの位置も、親しい人にしか見せない笑い方や微妙に照れている様子、ただの輪郭でしかないのかもしれないけれど、それでも記憶はカタチにも手を出して嘘をつく時があるから、正しいカタチを覚えていたくてアルバムを探すのだと思う。

アルバムを見返すことは、実際は少ないかもしれない。

私の所有欲(でいいのかな。)が強いだけか、今この瞬間そういう人のことを考えて感情的になってしまっているだけか、それともその両方か、どちらでもないのかわからないが、「過去」と「現在」を私的な意味でつなぐアルバムは、やはり多くの人の目に触れることはないけれども、公共的な写真とは違って、いつでも私を写真の中のその時に簡単に戻してしまう。

日本人は嫌なことは忘れてしまいたいと思いがちだという話が授業内にもでたが、それとは逆方向のキモチと記憶と思考回路。

私の感覚が多くの人と共通しているのかわからないが。

「過去」を「いまここ」にグイッと時に暴力的に引きずり出してくるモノがアルバムなのかなと思う。

 

現代には、いまここ(リアルタイム)で人とつながることのできるツールが増えている。

寺山修司が街中でやった市街劇のように、リアルタイムで様々な最新機器などの媒体を通して同時多発的につながっている。それが、いま現在のニュードキュメンタリーではないかとわたしは思う。ただ、それを「いま」だけの一瞬のつながり、「いま」だけの一瞬のニュードキュメンタリーだけにしてはいけないと思う。

23歳の私に東日本大震災は刻まれるが、幼いこどもたちはどうだろう。昔のわたしのようになってしまわないだろうか。

一瞬の力は時に力強くあるけれども、「過去」と「現在」を(私的にだが)つなぐアルバムのように、「現在」と「未来」をつなげることのできるニュードキュメンタリーを探さなければならないと思う。

その作業も、ニュードキュメンタリーの役割ではないだろうか。

 

まとまりのない私的な文になってしまいました。

1年間、ありがとうございました。

 

しかも、日付変わってしまいました。すいません。

 

151004 内山 歩

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