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モラルと芸術性 日橋 慶充

デザイン研究領域1年 151019 日橋  慶充

私が授業内でニュードキュメンタリーを強く意識したのは、スーザン・ソンタグの「他者の苦痛へのまなざし」について議論した時であった。震災後の様々な影響から逃げていた現実と、それでも制作を続ければならない状況について深く向き合うきっかけにもなった。オレは関係ないからなにも言わないし、言えない!みたいな考えが、いかに俗悪な結論であるかも知れた。しかしだかといって原発デモをするのも何か違う。ではいったいどうすればいいのか。ニュードキュメンタリーの授業はその避けれない問題を扱う授業であったと思う。そこで、深く印象に残った授業を自分なりにまとめていた回があるので、紹介したい。

モラルと芸術性

被災地を撮影する際に、被災者を被写体にするのはモラルに欠けた行動なのか。或は撮影者が被災していたら、撮影してもモラルに欠けてない行動なのか。この議題ではジャーナリズムの功罪/葛藤について議論を展開させた。

被災地に我れ先と一番乗りで現地入りした、写真家らはハンターである。ハンターであるが故の苦悩もあると思うが、海外から来たカメラマンは正真正銘のハンターだ。

海外から来たカメラマンらは遺体をばんばん撮り、美しい恣意性のある写真を撮って帰国する。一方で日本人カメラマンは遺体を撮ろうとしない。カメラマンとはいえ、自国の被災者に対する罪悪感が顕著に出ている。9.11の時にアメリカ人のカメラマンが、自国の遺体を撮影しなかったのと同じ心情なのか。この一連の流れで、日本のカメラマンが遺体を撮りずらく思ったり、被災地を堂々と上手く撮影できない理由はどこにあるのか。一つ議論中に興味深い話があった。それは上手い写真が叩かれ、下手な写真が叩かれないのはどういうことなのかという事だ。それは日本という村のコミュニティー感覚が見えない圧力をかけているに違いないという結論に至ったが、この感覚は撮影のモラル以外にも共通するものがあると思う。次に諏訪先生の報道ジャーナリストの議論に移る。報道ジャーナリストの仕事は、事件のより深部に入り込み撮影することだ。という内容だが、そのジャーナリストの撮影時の精神状態は、”一旦人間停止”しているらしく、仕事後の飲み屋で人間を徐々に取り戻していくという事らしい。そうでもしなければモラルの圧力は乗り越えられないものか。そしてこの議題の最後の議論は、チンポムが被災地で行った「気合い100連発」というパフォーマンスについてだ。この企画はチンポムメンバーと被災者が円陣を組み一言発言し、みんなで気合いを入れていく趣旨だが、最後の百回に近づくにつれてやけに人間の深部が見えてくる(悲しさを超え、トランス状態になり人間の一番リアルな部分が現れる)。今回の多様な震災関連の写真や映像の中でも群を抜いたドキュメンタリーだとホンマ先生は語っていた。

これは表現の一部分の議論だが、様々な制作活動に通底している議題だとも思う。

最後に今月の15日にニュースになった記事を紹介して終わらせたい。

福島県二本松市は15日、昨年7月に完成した同市内のマンション1階の室内で、毎時0・9~1・24マイクロシーベルトと屋外より高い放射線量が検出されたと発表した。市や国などは、コンクリートの基礎部分に、原発事故で計画的避難区域となった同県浪江町の採石場の石が使われたのが原因とみて調べている。



 



上記の画像は、一見普通の新築マンションだが放射能汚染されている。先日、ホンマ先生の個展「その森の子供」を観たあとなので、不可視の恐ろしさをより感じた。

諏訪先生、ホンマ先生、柳本先生、一年間大変お世話になりました。多様な視点が増えたことに感謝致します。今後とも御指導宜しくお願いします。

日橋 慶充

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