2011年12月18日
12月16日金曜の授業では
ソフィ•カルの「ダブルブラインド」と谷崎潤一郎の「鍵」をとりあげました。
谷崎純一郎は言わずと知れた文豪です。代表作に「春琴抄」や「細雪」「陰影礼賛」などがあります。この「鍵」という小説は中年から初老の夫婦がお互い読まないものとして日記を書き合います。いやきっと読むだろうということも含んでお互いを挑発したり騙したり陥れたりする恐ろしい小説です。旦那の日記は漢字とカタカナで妻の日記は通常の漢字とひらがなで書かれています。日記という文体、形態がこの小説の全体を構成しています。瘋癲老人日記のほうも凄く面白いです。
鍵•瘋癲老人日記 谷崎潤一郎 新潮文庫
ソフィ•カルはフランスの現代美術家で、主に写真とテキストで作品を発表していますがこの「ダブルブラインド」は映画の形をとっています。一見単なるアメリカ東海岸から西海岸へのロードムービーに見えますが、この映画の構造はお互いがビデオカメラを持ってお互いを撮り、またお互い勝手に自分の気持ちをナレーションすることにあります。分かり合っている前提のはずのカップルが実は全くのディスコミニュケーションだったということが冒頭から明らかになります。しかし最後には気持ちの揺れから一瞬重なり合ったようにみえ、そしてまた…その展開がスリリングでまた凄く詩的でリスズミカルだと思います。
2011年11月13日
2011年11月11日、寺山修司のこの映画を見ながらさまざまな記憶がよみがえってきました。
それらの多くはノスタルジーとして受け取られかねないのでここでは書き込みを控えますが、一つだけ、備忘録として書いておきます。
映画制作とほぼ同時期に、私は写真の批評誌の編集主幹をつとめていて(学生時代のことです)、そのある特集企画で寺山さんにリチャード・アベドンという写真家(どんな写真家だったかは調べてみてください)についてのエッセイ(ちなみに<エッセイ>という言葉は<クリティーク>という言葉から派生したものです)を書いてくださいとお願いをしたことがあります。
寺山さんに相談した折、写真についてならアベドンについて書いてみたいなと言っていたからです。で、多忙の中を縫って書いてもらって、「リチャード・アベドン-レンズの青髭」という小論題名にして掲載しました。詳論の趣旨とは少し離れるのですが、以下にその一説を紹介しておきたいと思います。寺山さんにおいて既にして身体化していたドキュメンタリー観がうかがえるくだりだと思うからです。
「剥ぎとり暴露する写真ではなく、、ヴェールをかけ観察する写真こそ、真実の重みをもたらす。
ありのままの姿などどこにもないのであり、科学の眼か、詩人の眼か、そのどっちかが存在しているだけなのだ。
アベドンは、詩人の眼を時間的経験の中で現像し続ける。病的なまでの、心は孤独な猟人である」
寺山さん独特のレトリックですが、アベドンの写真を見れば、その真意を推し測ることができるように思います。アメリカを代表するモード写真家を稀代のドキュメンタリストとして看破する寺山さんの感覚に驚いたことでした。建築も映画も演劇も写真も、通底した感覚、あるいは意識によって共有されていた時代だったのだとあらためて思います。
その頃からです。ジャンルを超えた会話や論議が活発になってくるのは。いまはまた、ジャンル主義に回帰しようという趨勢が強く感じられますけれど。(柳本尚規)
2011年11月04日
今日は諏訪先生のお持ち頂いた、寺山修司ー谷川俊太郎ビデオレター1982ー83 を観ました。
「意味」と「無意味」そしてその間にある「意味ありげなもの」から自分とは?映像実験の往復書簡は寺山の死まで続きました。
アートの国際展でビデオアートが大きな位値を占めているいま観ても、アクチュアルで刺激的な作品だったと思います。
またyoutube での寺山インタビューの中の「演劇にドキュメンタリー性を持たせたい」という言葉はまさにニュードキュメンタリーだと思います。次回、日記というキーワードから少し寄り道して寺山修司の映画を観たいと思っています。
その後、年内の予定は日記個人映画にこだわるジョナス・メカスの作品、そして渋谷ユーロスペースで特集上映されているアメリカドキュメンタリーの巨匠フレデリック・ワイズマンを観にいくことを考えています。
ホンマタカシ