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「書を捨てよ町へ出よう」より

2011年11月11日、寺山修司のこの映画を見ながらさまざまな記憶がよみがえってきました。

それらの多くはノスタルジーとして受け取られかねないのでここでは書き込みを控えますが、一つだけ、備忘録として書いておきます。

映画制作とほぼ同時期に、私は写真の批評誌の編集主幹をつとめていて(学生時代のことです)、そのある特集企画で寺山さんにリチャード・アベドンという写真家(どんな写真家だったかは調べてみてください)についてのエッセイ(ちなみに<エッセイ>という言葉は<クリティーク>という言葉から派生したものです)を書いてくださいとお願いをしたことがあります。

寺山さんに相談した折、写真についてならアベドンについて書いてみたいなと言っていたからです。で、多忙の中を縫って書いてもらって、「リチャード・アベドン-レンズの青髭」という小論題名にして掲載しました。詳論の趣旨とは少し離れるのですが、以下にその一説を紹介しておきたいと思います。寺山さんにおいて既にして身体化していたドキュメンタリー観がうかがえるくだりだと思うからです。

 

「剥ぎとり暴露する写真ではなく、、ヴェールをかけ観察する写真こそ、真実の重みをもたらす。

ありのままの姿などどこにもないのであり、科学の眼か、詩人の眼か、そのどっちかが存在しているだけなのだ。

アベドンは、詩人の眼を時間的経験の中で現像し続ける。病的なまでの、心は孤独な猟人である」

 

寺山さん独特のレトリックですが、アベドンの写真を見れば、その真意を推し測ることができるように思います。アメリカを代表するモード写真家を稀代のドキュメンタリストとして看破する寺山さんの感覚に驚いたことでした。建築も映画も演劇も写真も、通底した感覚、あるいは意識によって共有されていた時代だったのだとあらためて思います。

その頃からです。ジャンルを超えた会話や論議が活発になってくるのは。いまはまた、ジャンル主義に回帰しようという趨勢が強く感じられますけれど。(柳本尚規)

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