TOKYO ZOKEI UNIVERSITYだれかで終わるな。

東京造形大学工房運営課 風間 純一郎 Junichiro Kazama

フォトグラファー

藤田 二朗

Jiro Fujita

PROFILE

学⼠課程 デザイン学科 造形計画I類 1999年卒業。2015年、⾃⾝のスタジオ兼写真館photopicnicをオープン。以降、商業写真と家族写真の⼆⾜のわらじ。取材案件では妻の野村美丘さんとの共働も多く、共著に『わたしをひらくしごと』がある。

編集者・ライター

野村 美丘

Mick Nomura

PROFILE

学⼠課程 美術学科 ⽐較造形専攻I類 1997年卒業。photopicnicの運営を⼿伝いつつ、『&Premium』『PAPERSKY』など雑誌への寄稿や『暮らしのなかのSDGs』『モダン・ベトナミーズ』『うるしと漫画とワタシ』など書籍の制作を⾏う。

今の仕事につながる道の始まりは?

藤田学⽣時代は、デジタルコミュニケーションの黎明期。スパイダーマンやスターウォーズなどの映画でCGが使われ始め、CM映像にも興味があったので、メディアデザインを専攻しました。ところが、授業で様々な技法を学ぶうちに、デジタルではない、写真の⽣の表現に惹かれていったんです。その頃まだデジカメはなく、ちょうどスーパーモデルブームの時代でもあって、カメラを介した⼈間対⼈間の研ぎ澄まされたクリエイティブワークに興奮しました。写真の世界にどんどんのめり込んで、出版社のアルバイトでカメラマンのアシスタントとしてリアルな撮影現場を経験したり。そのまま写真の道へ進んだのは、早世した⽗親が広告カメラマンで、遺された作品を⽬にしていた影響もあります。

野村私の⽗はコピーライターで、⺟は元ファッション関係。⾃分の指向には家庭環境がもろに影響しています。とはいえ、ただ漠然とクリエイティブな世界に⾝を置きたいという気持ちがあっただけで、将来の明確なビジョンがあったわけではなく。雑誌は好きだったのですが、編集という職業があることを意識したのは、卒業後の進路を考えるようになってからです。2年⽣の時に受けた写真の授業が⾯⽩くて撮影と現像にはまったこともきっかけの⼀つだったと思います。表現の術を知ると、どうやってものがつくられるかが具体的にイメージできるようになります。そうやって様々な経験や出会いを積み重ねていって、ある時ふと振り返ると⾃分の後ろに道ができていた。そうして歩んできた道を確認することで、向き直った時、これから進もうとする道すじがぼんやり⾒えてくるような感じでしょうか。

心が折れた経験は?

藤田卒業式の⽇に⺟が他界して、引きこもりのような状態に陥ってしまったことがあります。でも、どうにかして⽴ち直ろうと、写真スタジオに就職したんです。そこは昭和の時代ならではの徒弟制度のような厳しい体育会系で、肌に合わず、すぐに辞めてしまいました。それでも、もう⼀度しっかりと写真を学び直したいという思いは消えず。ふつふつとしている時に仲間を介して師匠に拾ってもらえたのは、幸運でした。写真で⽣きていくためには、技術的なことはもとより、現場感が何より⼤事です。プロとしての⼼構えは、⼤学では⾝につかない。商業カメラマンを⽬指すなら、⾃分を売り込む営業⼒も必要です。と⾔いながら、僕は昔からそこがちょっと苦⼿なんですけど。

野村⼤きな挫折というわけではありませんが、『STUDIO VOICE』という⼤好きなカルチャー誌の編集部に憧れ、新卒募集がないのに無理やり応募したんです。そういう私のような無茶な学⽣がたくさんいたらしく、急遽、募集の⾨⼾が開かれ、運良く採⽤されました。なのに、その喜びも束の間、配属されたのは営業部……! ⾃分が希望した職種ではなかったので頭がまっ⽩になりました。とはいえ、夢⾒た世界にせっかく⾶び込めたのだから、まずはとにかく努⼒してみようと。⼩さな編集部だったこともあり、執筆や撮影をやらせてもらえることもあって。転職先ではそのキャリアと好奇⼼が結びついて、やっと編集の仕事に就くことができました。営業の経験も広い意味で、今なお役に⽴っています。

やりがいは何ですか?

藤田写真館を始める前は、広告や出版のメディア業界で有名⼈の撮影に携わる機会が多かったのですが、慣れていくにつれ、⼿応えを感じられなくなり、流⾏に振り回されながら⾃分が消費されていくような気がして。そんな時に東⽇本⼤震災が起こった。ロケが中⽌になり、仕事が完全にストップしてしまい、もう写真なんか必要とされないんだなと、急に怖くなりました。でも、⽬にするニュースでは、被災した⼈々が⽡礫の中から必死で家族の写真を探している。その時、撮るべきものが⾒えたんです。⼈に喜んでもらえる1枚を撮りたいと、⼼から思いました。

野村編集の仕事は業務領域が広いので、撮影現場が楽しいとか、良い写真やデザインが上がってきたとか、満⾜できる原稿が書けたとか、気持ちが盛り上がる瞬間はたくさんあります。なかでも、取材相⼿や読者に完成した記事を喜んでもらえた時の充実感は格別です。私の仕事が、誰かの喜びにつながる。その連鎖で世の中は成り⽴っているのだと、しみじみ思います。

「だれかで終わるな」の「だれか」とは?

藤田フリーランスである以上、絶対に「だれか」で終わってはダメ。名を知られる存在になるのは本当に⼤変なことですが、どんな現場でも、他のカメラマンにはできない仕事だという⾃負がないと、良い作品は⽣まれないし、⽇も当たらない。何年キャリアを積んでも、格好良くないと思う仕事を振られることは、ままあります。でも、何を撮るかということより、撮った1枚が今の⾃分のすべてだと思えることが⼤事。「だれか」で終わるまいと、⼀つひとつの仕事をていねいに、⻑く続けた先に得られる喜びもある。「だれか」とは、その喜びを⾒い出す前の⾃分です。

野村進路決定には不安も伴うが故、他⼈が通ったのと同じ無難な道を選んだり、親や社会といった⾃分の外の物差しで決められた枠にはまってしまって、才能を伸ばしきれないケースもあると思います。でも、そもそも同じ考えの⼈などいない。みんな⼀緒はありえないのだから、始めから⼀⼈ひとりが「だれか」なのではなく「他でもないあなた」なのだとも⾔えるのではないでしょうか。⾃分ひとりでなんとかしようとするだけではなく、そういう⼈たちと出会って、ともに何かをつくっていくと、相乗効果が⽣まれて想定外の豊かなものが⽣まれることもあります。思うような環境が得られなくても、⾃分で⼯夫して場を⾯⽩くする⽅法はきっとあると思います。

だれかで終わるな。