CSP2シンポジウム 2014.11.23
 「手法の触感について」

登壇者
 岡本真希 今村洋平 山本桂輔 染谷悠子 ヒグラシユウイチ 末永史尚(榎本裕一代理)

モデレーター
 沢山遼


末永:
本日は、出品作家のみなさんに制作のプロセスの写真を用意していただきました。それを使って自己紹介を各自10分間していただいて、そのあと、沢山遼さんと、全員でディスカッションをしていく予定です。
今回は、参加作家の一人の榎本裕一さんが残念ながら都合が悪く、欠席されますので、私が先日、榎本さんのスタジオに伺い、いろいろお話をうかがってきました。そのときのお話を私からさせていただきます。
では、早速、自己紹介を始めようと思いますが、その前に私からお名前をご紹介させていただきます。こちらから今村洋平さんです。そして、岡本真希さん。染谷悠子さん。ヒグラシユウイチさん。山本桂輔さんです。
それでは、今村さんから自己紹介をお願いいたします。

今村:
今村洋平です。よろしくお願いします。
僕は今回、こちらのシルクスクリーンの作品を展示しています。自己紹介ということで画像を用意しました。この画像は、シルクスクリーンの仕事を始めた本当に最初の頃のものです。これが一番最初に作った作品です。これは大学の3年頃だったと思うですが、今見るとよくこんなので刷っていたなという感じなんですけど。このときはあまりまだ大学でもシルクスクリーンはちゃんと教えていなかったような気がします。枠も木枠で、今はアルミの枠を使うのですが、木はすぐに歪んでしまうので…。すごくひねりが入って、刷りにくかった記憶があります。
この画像も大学の研究生の頃の作品です今はないんですけど、旧校舎のかまぼこの裏のアトリエでずっと制作をしていて。研究生の1年間で赤いドットのシリーズを4点作りました。こういう風に、ちょっとぼこぼこしたような…。
この画像は、卒業してから山に興味を持つようになって、憧れる山があったのですが、すぐには行けるような山ではないので、とりあえず作ってみようかなと思って、作ってみた作品です。
この画像は途中経過です。
これはその当時のアトリエです。
この画像は完成したもので、あまり良くわからないですけど、これが完成した状態です。まっ赤に見えるんですけど、本当は赤の中でも7、8色は使っているので、実際に見てみると、その変化はわかると思います。特に自然光だと、すごくきれいに見えるんですが…。
その次に取りかかった作品の途中経過がこの画像です。
これは、徐々にのぼっていくんですけど。まだ7合目ぐらいですかね。
これはもう本当にほぼ完成の状態です。真ん中の点だけが残っているというくらいの感じです。で、これが完成です。これは「かまぼこ展」のときの画像です。これも同じ「かまぼこ展」の時の画像です。
この大きい作品は、大学を卒業して最初に作った作品で、2m×1mなんですけれど、3つをつなげています。これは卒業して普通の10畳くらいのアパートで作っていたので、本当にもう寝る場所がないくらいの感じでした。
それからちょっと飛ぶんですけど、これは、去年かおととしぐらいから、こうした多面体の立体を作っています。なぜ作りだしたのかというと…。こういったものはずっと作っていたんですよ。昔は制作に入る前に、大体ひとつ折っていて、それから制作に入るというスタンスをとっていて、だから、ずっとこういったものを作っていました。これは、表面はシルクで刷られているんですが、今回も、壁際のところにも展示しています。
これもそのシリーズのものです。 
これもよく作り方とかを聞かれるんですけど、刷りを行っているものなんですけど、一枚一枚の紙を全部板に貼付けて、その上に版を合わせていって、何度か刷って、それからまた剥がして、ちょっと折って組み上げるというものです。
これが一つひとつのパーツです。これを一個一個組み上げていきます。この画像もそうですね。
これはどんどんどんどん折り上げていっているものです。
これは今回展示しているものの画像です。
この画像は、今回展示している三角の作品の最初の頃ですね。最初の頃といっても多分500回以上シルクスクリーンを刷り重ねている状態だと思うんですが、これは最初の頃です。
これで色が出るんですけれど、本当に多数のインクの色を使っているので、本当に一個の層で終了するときにすごくバリエーションがあるというか、変化していく、かなり変化が大きいです。
この画像のところまでくると本当に完成に近いところです。これは、実は両端の直角三角形みたいなのは、後から付け加えたんですけど、この三角形の…、僕は大体いつも絵を二つずつ作るんで、この直角三角形のものは計4つあって、その4つを組み合わせたものが、この壁の一番奥の方にある作品になっています。この画像のような四角の状態を三角に切って、ちゃんとくっつけるように計算したものです。
僕は作品を作りながら記録をつけるんですけど、インクの種類と、何回すったかと。積み上げるインクと、最終的に載っていくインクというのは種類が違いまして、重ねていくインクはシルクスクリーンなんですけど、最終的なものはもっと発色のいいインクを使っているんですね。それで、この数字なんですけど、例えば、4とかあるのは、4回刷って、歯を1回洗っています。その繰り返し。この丸い1を1ターンと言っているんですけれど。1ターンというのは、1個の層ですね。その層でこの作品だと、大体40回〜50回は刷っています。だから洗う量もすごいですね。こういった記録を、全部の作品で付けています。
これは、そこの青い作品と同時進行で作ったもので、これは前にも黄色でしているという作品です。画像はそんなところです。
以上、ざっとではあるのですが、このような感じで作品ができあがっているというのがなんとなくは分かっていただけたのではないかなと思います。

末永:
ありがとうございます。ちょっと先ほど言い忘れたのですが、私の名前は末永史尚と申します。実行委員をやっております。
では、次は榎本さんの作品について、私がお話いたします。代理なので、どこまで正確にお話ができるか心許ないところもあるのですが、できる限り努力してお伝えできればなと思っています。
榎本さんは、1974年生まれで私と同い年なんですが、今年で40歳ですね。造形に在学中は具象コース、今は別のコース名なんですけれど、当時は具象コースと言っていました。今写っているのは、在学中に制作された油彩画だそうです。モチーフを描いているときの背景の存在をどう処理していいのかということを、ずっと問題意識として当時あったということで、その背景を全部塗りつぶしてしまって、石膏を塗って盛り上げた状態の作品がこの絵だそうです。
 その空白を物質に変えて、そこにどういう意味を持たせられるかということを考えて制作をされていたそうです。白く盛られているところは、1cmくらいあるということでした。
 この画像が、造形大を卒業されて芸大で木工の勉強をされていたということで、そのときに制作されたのがこの作品です。2001年の制作で、タイトルは「無題」だそうです。これは、斜めから見たような状態なんですが、(スライド進める)これがもうちょっと角度を付けた状態ですね。
この画像が真横から見た状態です。形態としてはフリスビーに近い形状の作品で、木にウレタン塗料、着色の仕方はエアブラシで吹き付けだそうです。
その絵でいうところの背景部分を丸ごとなくしてしまったようなイメージで制作されたということで、絵の中における形態そのものを支持体の形にしてしまえばいいという形で問題意識を解消したというようなことでした。
ここに薄く盛り上がっている曲面があるんですけど、カーブミラーのように盛り上がっているカーブだとか、実際のフリスビーの形のゆるやかなカーブとか、実用的なものについて、ゆるやかな形。実用的なものが必然的なモノの美しさに関心があって、こうしたものを参考にして、制作しているそうです。
その後、榎本さんは、制作上の関心から、金沢に漆の工芸の産地に修行に行かれまして、この画像は2006年の作品だそうです。これは実用的なお椀として制作したものです。次の画像は上から覗いた状態ですね。
修行なので、作品という意識というよりもこの形を体にしみ込ませるようにいくつもいくつも作っているうちに、椀の一番底のへこんだ部分を工芸の用語で「みつけ」というらしいのですが、その部分の存在感に関心を持たれたそうで、その部分だけ取り出して作品に取り入れられないかということで、こういう形、底が少しくぼんだ形態を作品化することを思いついたそうです。同時に、作品の側面というものも最初から関心があったようで、作品からその側面を取り除けないかということで、作品を皿状にしたうえで、さらに薄くなっていったそうです。これも、そういう意識で、お皿状なんですけど、横から覗き込んでもそのお皿の厚みが気にならないような形で、この形が決まっていったそうです。
これは、2005年に作成された作品で、タイトルは「無題(ハス)」だそうです。今のタイトルの付け方とほぼ近くなっていますね。技法的には、この頃はまだ木がベースにあって、木にウレタン塗装です。
次の画像が、「塗膜の花」という作品で、外見的にはさっきの作品と変わらないのですが、これは今の作品と同じような形になっています。今展示されている作品もそうなのですが、この頃から作品の支持体、それまでは木がベースとしてあったんですけれども、その木のベースを無くしてしまって、塗料だけが自立しているような作品になっています。100%ウレタン塗料の作品で成り立っているということですね。
その制作過程なんですけど、こんな形です。金属をベースにしている作品も制作されているんですけど、これはベースがある形の作品です。100%ウレタン塗料でできている作品は、本当は下にシリコンでできたお皿のような型があって、それにこれと同じような形で塗料を吹き付けて制作をしています。その下の棒状のものが、これ回転するんですね。工芸のろくろらしいんですけれども、一定の速度でずっと回転していて、その上からエアブラシで上下ずらしながら吹き付けると、回転体なんで、軸ができたような形で絵の具がのっていくということです。
数日前に、回っているところを見せてもらったんですけれども、下に真空ポンプが付いていて、この軸のてっぺんが吸引するんですね。空気を吸い付けるので、上にのせたものがぴゅっと固定されて、この状態で回っていくと。上の型をいろいろ変えれば、違う大きさのものも取り付けられるという状態です。
今回は、円形の作品シリーズだけだったのですが、それ以外にスクエアの作品も制作されています。これは今年の夏ぐらいに、銀座のa piece of space APSというギャラリーで展示されていた作品です。
ちょっと前後するんですけど、これが直接モチーフになっているあじさいです。スタジオの机の上に花瓶に挿してあったんですけれど、これを見ながら色を合わせているそうです。
これは、今回展示されている作品にも使われた花だそうです。あじさいですね。
この画像は別の種類の作品で、展示用の台を塗装したような作品でその上に卵形の作品がのっています。
あとは、こういうお椀型をした作品もあるということです。
僕からは以上です。では、岡本さん、お願いいたします。

岡本:
こんばんは。岡本真希と申します。よろしくお願いします。私は東京造形大学の彫刻科を2007年に卒業しまして、在学中は木彫を専攻していたんですけれども、2008年よりスウェーデンのストックホルムに住んでいます。こういう街ですね。造形大を卒業したあと、スウェーデン国立芸術工芸デザイン大学の大学院に留学しまして、そこではジュェリーと食器、基本的には金工科なんですけれども、そこで実際に学生がやっていることというのは、金工をベースにしながらも、素材的にはいろいろなものを使っていて、どこまでが食器なのか、どこまでがジュェリーなのか、使えるべきなのか、使えないべきなのかそういうところもチャレンジしながら作っていて、そこでは、プレゼンの方法だとかコンセプトの組み立て方だったり、セオリーの部分なども鍛えられて、学校のクラスが7人で、それぞれみんな国籍が違うという状況で2年間鍛えられて、そのままスウェーデンに今残って制作をしています。
今は、同じ大学の卒業生7人、みんな金工科を卒業しているんですけれども、その7人のアーティストと、アトリエとブティックとギャラリーをシェアしながら共同運営をしていて、あの中で7人がそれぞれがベンチがあって制作をしつつ、お客さんがジュェリーを買ったり食器を買ったりしながら、インターナショナルに活躍しているアーティストさんを年2回呼んで、展示をしてもらったり、アーティストトークをしてもらったりというようなことをしています。
これがギャラリーの中にある私のベンチなんですけれども、今回あそこのところに作品があるんですけれども、あそこに展示させているものもこちらのベンチから生み出しています。
これもギャラリー写真なんですけれども、ジュェリーの細かい糸鋸とかでギコギコ切りながら、あとはこの奥にもうちょっと大きいポリッシングマシンなど、いろいろなものを共同でシェアしながら使って、造形のときにチェーンソーを振り回していたのとは全然違う制作方法を今はとっています。
人体を木彫で作ったり、抽象の作品を作っていたところから、なぜこういう技法というか表現方法に変わってきたのかというと、やはりもっと人に近づきたくて、人の生活に入り込みたいとか、人に実際使ってもらうとか、そういう欲望が出てきて、それでジュェリーとか食器とかいうのをテーマに…。特に食に興味があるので、食器を作るようになりました。
今回展示させていただいている作品は、3つのプロジェクトで構成されていて、一つはコップの作品なんですけれど、コップの作品はあえてコップのメインの用途である、液体物を入れて口に運んで飲むというファンクションをあえて抜いて、コップって他にも存在価値があるよねということを問いかけたくて、あえてその何かを飲むという行為を省いたものを多分100個ぐらい作ってインスタレーションをして、今回もってきた6個は、その中のものです。
その存在価値、私が今いくつか挙げると、例えば誰かとお茶をしているときに、話を中心で聞いてくれるようなアーカイブ的な存在、聞き手だったりとか、そういう存在価値もあるような気がするし、あと、オフィスとかに自分のマイカップみたいな形で、自分のキャラクターを表現するような、ジュエリーやブローチとか付けて私こんな人みたいな感じの存在価値もあるんじゃないかなと思いながら、いろいろな素材を使ってコップを作りました。
素材の中には、この写真に写っているのはソープストーンというんですけれども、すごくやわらかい石で、コップって普通は中に何かを入れるものがあるものなんですけれども、これはあえてソリッドな状態にして表現したものです。
あと、コップの中では真鍮で作っているものが多くて、これは絞りスピニング加工というものでだいたい作っているのですが、ろくろみたいなものに、型があって、そこに円状に切り抜いた板を付けて、それをまわしながらヘラというか、金属の棒で徐々に押しながら型に合わせていくという技法をとっていて、それは結構彫刻でチェーンソーを振り回していた頃と同じような体の使い方ができたので、すごい気持ちよかったです。最後のふち形の部分は、2本のヘラを使いながらくるっとまわしていくという技法を使っています。
今回展示させていただいた中の2つのプロジェクトは、スプーンのプロジェクトで、この画像はアンティークのスプーンを買い込んできて、それを切ったりはったりしながら再構成している作品で、コップのときはあえて飲むという行為を抜いたんですけれども、このスプーンの作品では、使えなさそうで実際使える、使っていただく方の普段、スタンダードなスプーンを使っているときとは、体の使い方も変わってくるし、食べるということの価値観も変わってくるんじゃないかと思ってこういう作品を作りました。
次の作品です。これも多分50本くらいはいろいろな形をチャレンジしながら作っていきました。テーマにしているのが、人が日常的に使う物をテーマにしているので、コップとかスプーンとか出てくるんですけど、こういうものをギャラリーとかで見せたときに、年齢や国籍など全然関係なくいろいろな人が立ち止まってくれて、「これありなの?これはなしなの?」とか、子どもが立ち止まってお母さんに「ねえねえこれは何?」「これはスプーンなの?フォークなの?」みたいなディスカッションが始まっていってる感じがすごくうれしくて、私「こう使ってください」とかいう押し付けみたいなのは絶対にしたくなくて、使い手だったり、見てくれる人に余白を与えてあげて、その人たちが自由にイマジネーションを広げていったりとか。例えば、これを見たあとに家に帰って、自分がいつも使っているスプーンでごはんを食べるときに「あれ?なんでこれはスプーンの形なんだろう?」とか「これは、本当にあるべき形なのかな?」とか「なんでこれがスタンダードな形になったんだろう」とかというような疑問を抱いてくれるようなきっかけになったらいいなと思って制作しています。
この写真もそのスプーンです。2つくっ付けちゃったり、3つくっ付けちゃったりして、使う人によって、感覚もどんど変わっていけばいいなと思います。
次の写真は、加工する前のスプーンで、素材にしているものですね。それぞれのスプーンはキャラクターがあって、模様があったり、プレスされているものだったりというのがあるんですけれども、それを最終的に形を再構成したときに、「この模様の部分はいるのか」とか、この形をもうちょっと丸みを帯びさせたほうが全体感が出るのか調整しながら最終的には仕上げて、サンドクラスターをかけて表面を均一にして、そのあと銀メッキをかけています。
これが3つめのプロジェクトなんですが、この丸い円盤が、お皿なんですけど、食べ物を考えたときに、お皿にのって自分が食べているものって、ライフスタイルとか考え方だったりとか、価値観みたいなものが反映されているなと思って、鏡のようだなと思ったところから作りました。でも、鏡なんだけど、本当に100%鏡のようにその人を映し出しているのかといえばそうじゃないと思うんで、若干曇りを出すために、これは表面加工は、これはステンレスなんですけど、これは軽石を粉にしたものをブラシに付けて、水と洗剤をつけてぐるぐるとまわしながら、ある程度曇らせるという加工をしています。次の画像は、スプーンのプロジェクトのものなんですけれども、このスプーンを作っていて、「使ってほしい」「使い手のことを考える」と思いながらずっと制作をしていたんですけれども、やはり実際使ってもらうようなイベントをしなきゃいけないなと考えたときに、ちょうどそういうプロジェクトを企画しているアムステルダムの拠点にしているSteinbeisserというんですけれども、その方達と出会い、声をかけていただいて、それで、シェフの方と私でコラボしてイベントをすることになりました。彼が主催者のマッピンというんですけれども、彼はキュレーターというかオーガナイザーというか、かつすごく食に興味がある方なんですけれども、彼がアムステルダムにあるロイドホテルというホテルの一室で唯一キッチンがあるところを抑えて、そこで料理をしてお客さんを一晩に25人呼んで、金土日の三日間イベントをするというのをオーガナイズしてくれました。
彼はマッピンの相棒なんですけど、みんなで一緒に農家さんから届いた野菜を洗ったり、切ったり、サーブしたりということを一緒にしながら…。この部屋はキッチンと、みなさまに座っていた場所が長い場所だったので、作っているところがお客さんに見えたし、すごくコミュニケーションがとれる状態、キッチンとお客さんがコミュニケーションを取れる状態で、イベントが進められました。
これはそのお客さんがご飯を食べてくれているところなんですけど、これは見づらいですけど、食器は私が作ったものです。反応はやっぱりさまざまで、最初このスプーンで食べてくださいといったときはみんなぎょっとして、「いや、無理でしょ」みたいなことを言いつつ、食べてみると「いけるじゃん」とか「こんな食べ方できるよ」とか、このメニューにはこっちの方が合うわとか。いろんな発見をしながら、いろんなディスカッションをしながら、わいわいわいわい楽しく食べてくれました。
これは、私が作った食器を一つのテーブルにばっと並べて、毎回料理が出てくるたびに自分の好きなものをとって使ってもらって、それをまた洗って並べてというカジュアルなスタイルでやりました。
食べてもらったあととかも、すごいいいディスカッションがみなさんとできて、食に興味がある人から、アートに興味の有る人、娘を連れてきたから、娘のプレゼントが買えたらといってスプーンを買っていてくれたお母さんだったりとか、いろいろな人が来てくれたことで生まれたパワーみたいなものがこのイベントを成功させたと思います。
この写真は、最初に紹介したように、私が所属している7人でシェアしているアトリエのみんなも、私にそそのかさせれてじゃないですけど、私の食器を使ってみんなでご飯を食べてみようといって食べたときの写真ですね。
なので、今はどんどん食のイベントを企画している感じですね。食のイベントって、今のところは食べてもらって、あー楽しかったで終わってしまっている気がするので、これからの課題は、写真にドキュメンテーションするなり、映像を撮るなり、シンポジウムとかするなり、もっとおもしろいことにしていけたらなという現状です。ありがとうございました。

染谷:
こんばんは。染谷悠子です。私は2004年に造形大を卒業し、芸大の大学院に行って、今も制作を続けています。まずはじめの作品なんですけれども、2013年、去年の5月くらいにやった個展のときに、アトリエの方に取材にきていただいて88秒という短いVTRを撮っていただいたので、いろいろな素材、和紙だったり、アトリエの雰囲気がわかると思うのでまずそれをみていただきたいと思います。(映像が流れる)
いろいろと基本、中心的な和紙の映像とかを見ていただいたいんですけど、まず、私の描く絵は、絵の中でモチーフとして主に使っているのが、鳥と蝶と草花、植物、あと蜘蛛の巣と水が主に出てくるんですけど、それは、小さい頃に公園とかで一人で夢中になって作ったものたちがあるんですけど、その素材たちなんですね。
そういうものを作っていった中で、そのうちの一つに虫の墓というのがありまして、これは、初めて親族の死に立ち会うというかお葬式をして、お墓に骨を入れてみんなで石を水で磨き、お花をお供えするという光景がすごく不思議に思えたのと、多分美しく思ったんでしょうね。それを終えて家に帰って、次の日くらいから公園で虫の死骸を集めるのに夢中になり、それを一つお気に入りの場所に穴を掘り、埋めて、形のいい石を探しにいって、それに合うきれいな小さな花とか植物とかそういうものを供えるというのにすごくはまっていきました。
幼いので、子ども残酷物語になりますけど、そんなに毎日作っているとそうそう虫の死骸とか探すのは難しくなってくるので、いつしかお墓を作るために虫をとり、殺し、お墓を作るという順番が…、死に対する幼いながらの鈍感さが、美しいものを作るためにちょっと変になっちゃっていたというときがあって。
そういうことに夢中になっていたとき、たまたま通りかかった友達が、「何してるの?」って声をかけられたときにはっとして、「なんでもない。なんにもやってない」と言ったときに、自分の中の得体の知れない「自分」という親しい存在をすごく感じたところから、また違うものにどんどん夢中になっていくんですけれど、またそれは次の機会にお話するとして。
そうした小さなものの手触りとか、はかない存在とかを、絵だとすごく自由に扱えて、実際鳥の羽って色とかも結構汚くて、「もっときれいなのを想像していた」とか、もっときれいな羽がほしいとか、花もこういうものがほしいってなったときに、絵だったら、自分の好きな形に描けるし、自分の好きな素材で作れるので、そうした存在を描くためにいろいろな素材を探して今の制作方法になっています。
今回「手法の触感」ということで、私が普段使っている道具とか素材とかを見ていただこうと思います。まずは道具からです。これは、鉛筆ですね。これ普通に見えますけど、結構なとぎっぷりで、木のところも、かなり長時間にぎっているので、すごく丸くなめらかに削り、やわらかい濃い鉛筆の芯とか、結構折れやすいんですけどそれを人に刺せるくらいの、すごいきれいに尖らせてというのが好きなのと必要で。
制作に入る前にかなり時間をかけて、1時間くらいずっと鉛筆を削っています。真ん中に写っているのが、今お気に入りの鉛筆削りのナイフなんですけど、これは高知の方の鍛冶職人みたいなおじいさんが、小学生の子の刃物離れみたいなので、小学生が手になじみを持ってくれる、鉛筆をちゃんとカッターで削ろうというので、デザインの人と組んだのか、おじいさんの発想なのかよくわからないですけれど、そういう発想でつくられたものです。
これが私の鉛筆ボックスです。実際はもうちょっとあるんですけど、いろいろな種類を試して今のところ手なじみがいい、紙に対してのなじみがいいなっておもうものをそろえています。
これは、はけとか、あとで出てくるんですけれど、リトグラフインクを使って刷るときのためのローラーですとかですね。はけも、のり用と、あとは和紙を貼る用とかでいろいろ使い分けています。
私の作品は、キャンバスに和紙を貼る、和紙を重ねていくのでのりが必要になってきます。いろいろ考えたり、いろいろな人に聞いたりして、これは重要文化財にも使える昔からの「生麩糊」というものなんですけど、これを毎回お鍋でぐつぐつ煮て、濾して、冷蔵庫で一週間もつという感じで生もので、毎回手作りしております。
これは素材の主に和紙のことですね。何種類か用途によっていろいろな厚さ、紙の種類を常時ストックしています。主に使っているのが、造形大のときに一個下の学年にいた、滝沢くんという埼玉県の秩父の小川町という和紙の里で和紙を作っているので、その彼に「こういう和紙を作ってください」「こうこうこういうのを何種類かお願いします」と、毎回わがままを聞いていただき、彼に作ってもらっています。
これは、滝沢くんの和紙ではなく、重要文化財の補修用の和紙です。すごく軽くて薄くて、ほとんど後ろのものが見えていますね。色鉛筆とか定規とか、下絵とかも透けていますね。その和紙にリトグラフの方法で主にグラデーションとかですね。それを刷って、それを切ってはって、表情を作っています。
これは、私は絵を描くときに実寸大の下絵をまず描くんですが、そこに紙を合わせていってその上で、色の調整とか形の調整を大部分やって、それからキャンバスにはっていって、そこでさらにどんどん変えていくという形にしています。
これも、どんどんこうやって一つひとつ素材を作っていきます。
これが今回の今年の夏からやっとずっとこの墨の表現はやりたくて、ある一つの技法をどうしてもマスターしたいなと思っていたのですが、なかなか独学ではしんどいというか、近いところまではできたときはあったんですけど、やっぱりちょっと違うなと思って。何年か前からそういうことをいろいろな人に言い続けていたら、その技法だったら、研究者の人知っているよという人が最近ようやく現れ、話をつけてもらって会えることになり、教えていただき、今年の夏からようやく作品にできるようになったかなというくらいできてきたので、今回から使っています。これはその素材ですね。
こうやって下絵の型を作って和紙を合わせて、この和紙もかなり繊維がすごく出るような和紙を毛羽立たせて切るという方法を私は好んで使っています。
これは刷ったもののストックですね。今はストック方法はちょっと変わったんですけれども、前はこういう感じで吊るしていました。やはり油性のインクなので、しばらくは吊って乾かして、しっかり乾かしたらあとはたたんでおくとか…。保管方法は大変ですね。
これは切った破片たちですね。結構きれいなので、切りかすもとっておいてあとでまた使っています。
次はグラデーションですね。私の作品の中でかなり重要なのが薄い和紙に油性のインクで刷ったものをグラデーションも版画だとすごく美しく刷れるので、それを重ね合わせて作品に表現で登場してもらっています。
この画像もそうですね。
水の表現とかもこのグラデーションを使って、神秘的なイメージとしての水というものを和紙を使って表現しています。
今回は花にも使いました。
こういう感じで鉛筆の線も私の作品の中では重要な一つのアイテムです。鉛筆の線と、あと和紙の繊維をひきだして張り合わせてそのすきまを線にするというものも、私の作品の中で重要に使っている一つの線のパターンです。この画像も、この糸のところがそうですね。直接描いた白い線と、和紙のすきまを利用して作った線。そうした線の表現の変化もつけています。
これは制作の進め方なんですけど、私は版画表現コースの出身なので、版画の作り方そのまんまということろもあるので、こうやって一つずつパーツ、これは背景をまず作っているところなんですけど、背景のパーツを一つずつ切り出してどんどんはっていくんですけど、版画を刷ったことがあるかたはわかると思うんですけど、まっ白い紙に版元を作って、まっ白い紙だったものにプレス機を通したりバレンを使ってやると、さっきまでは真っ白い紙だったのに、急に絵があらわれるという。そういう感覚に結構近い感じですね。急にばしばしと形があらわれてきます。こうしてどんんどん作品ができていきます。
これは前作った作品で結構大きい作品だったので、下絵の上でまず切った紙を並べてみてどんな雰囲気か見ながらやっているところですね。こうしてどんんどん合わせていって、どんどんはっていき、バシン、バシンと進んでいきます。以上が私の作品の作り方でした。ありがとうございました。

ヒグラシ:
ヒグラシユウイチです。1996年の卒業で、彫刻を専攻していました。在学中から卒業してしばらくは石彫、石の彫刻を制作して、現在でもお話をいただければ作って納めたりしています。
石の彫刻の他の素材をいろいろな理由で探して、今度は岩塩を使って作品を作っています。この画像も抽象彫刻ですね。このような作品を作っています。
このときから、岩塩の中に光源、電球を入れて発光させるというような表現をしていました。ただ、この状況だと、素材の特長、水に溶けるという特長を生かしきれていないんじゃないかということて、何年も試行錯誤しながら作っていて、2年前からは武器、つまり、溶ける素材を使うのであれば、溶けることに注目して、それは石とかもともと使っていたので、溶けるというのは弱点だと思いがちなのですが、逆の発想をして、溶けてなくなったほうがよいもの、この世からなくなったほうがよいものという視点から武器を作ることにして、現在に至るということです。
制作の手順として、まずモデルがあるので、型紙を作るところから始めます。紙にトレースしたものをプラスチックの板に起こしまして、それぞれの部分を切り出したものです。
次の画像です。先ほどのものもこちらのものも、今会場に展示してあるものです。今写っているのは、ライフル、長い方のものの型板になります。長いものの方だとパイプ状、円柱状のところがあるので、それに関しては、各部品ともに直径を測り、多面体にして削り込んでいくという図面というか簡単な見取り図といいますか、こういうものを作って、寸法を測りながら削り込んでいきます。
これが一番もとになる岩塩のブロックです。実物をお持ちしました。こちら、写真よりもわかりやすいかと思ってお持ちしました。さすがになめたらしょっぱいのですが、後ほど興味のある方は見てください。
次の画像です。この岩塩を半分にスライスします。一番最初のベースになるので、カットしていたところのその裏、今床になっているところですね、あと、写真でいう上の部分、正確に半分、90度を出していきます。
東京造形大学の彫刻科では、1年生のときに、「とうふ」という石の授業で、正六面体を作るという授業があるんですが、ちょっとだけそれが役立っているのかもしれないなという気がします。
これは、先ほどの型板に沿ってカットしていったところです。素材と道具の関係で、結晶が縮んでしまったりするので、ちょっと大きめにカットしております。ここからは、手作業、カッターで削り込む感じになるんですが、横から見た状態ですね。ざっくり削りこんでいった状態です。
この写真は板をカットしたままだと足りない部分があるので、付け足していっている状態ですね。そして、付け足したあと、削り込んだ状態です。それと並行して上のパーツも削り込んでいますので、方向を合わせながら…。合わせの部分が平面なので、いちいち合わせていかないと最終的に寸法が足りなくなったりするので、基本的に付け足しができない素材なので、気を使いながら慎重に進めていきます。
ここからは、厚みがさらに薄くなる部分を削り込んでいる状態の写真です。
だんだんシルエットが出てきたんですが、他のグリップの部分も削り込んで合わせている状態。先ほどと同じ理由で平面の部分を合わせていかないとあとで難しいことになるので、このように作っていきます。
これが最終組み立ての直前の状態ですね。グリップはねじで本来取り付けるものなんですが、さすがにねじを切って締めていくことが難しい素材なので、ねじの部分も埋め込んで、接着する際に強度を保つ、平面同士よりも凹凸で合わせたほうが強度を稼げるということで、こういう作りにしています。
モデルガンの画像なんですが、同じ寸法で作っているので、このようにおさまるぞという。この写真はいらないかも…。まあ、きっちり作っているという写真でした。
最後に使っている道具ですね。特に特殊なものは使っていないのですが、彫刻刀、丸刀、刃が7ミリ、4ミリ、3ミリとか、平刀が太いの細いの、あと、デザインナイフとカッター、L型とJ型、厚み違いで切れ味が違うので使い分けています。
カッターも普通のA型のカッターで切れ味のよいものを使っているのですが、まず岩塩を加工するのですが、ご存知の方だと伝わりやすいと思いますが、乾燥して固くなった石膏くらいの感覚です。カッターで削れないことはないけど、すごく固いという状況です。カッターを一枚ずつ折っていくペースで、刃を丸ごと取り替えていくというペースでどんどん切れなくなっていくので、これが大量に必要になってきます。
これは、計測する道具です。実物があるものなので、一ミリ違うだけで印象がだいぶ変わってしまうので、いちいちモデルを計測しながら。モデルは本物ではありません。合法的に持っていていいモデルガンなんですが、正確にトレースしてあるモデルなので、それを正確に計測して制作しています。
この画像は、削ってすぐ切れなくなるので頻繁に研ぎ直しをするのですが、2年使ってこれだけ使ったんだなということで撮った画像です。
これが石彫のときの道具と全く同じものです。というよりは石彫で使っていた物をそのまま使っています。左は180のグラインダーと呼んでいますが、180ミリの直径の刃を付けられるものです。右が100ミリの直径の刃をつけられるグラインダーを使って大幅なところは作業しています。
これがその取り付ける刃です。何種類か試したんですが、石彫など大理石をカットするときに使う電着のダイヤモンドカッターを使ってカットしています。で、下の小さい二つのものなんですが、グラインダー用の紙ヤスリみたいなものですね、これで大まかなところは削ったあと、カッターで作業するという形になります。
石と違って、振動に弱いので、スピードを落とした方がその後の作業に都合がいいので、こういう石のときには使わなかったこ道具をかませて、スピードを調整しながら制作をしています。以上です。

山本:
山本です。私はそちらのカーテンの部屋の彫刻を出しているものです。基本的に主に絵画と彫刻を作っているんですけど、自分の中でこういうものを表現したいという思いがあって、それには絵画と彫刻が必要で発表しているんだというよりは、そういうものではなくって、むしろもう少し距離があるというか、人が何か考えて手を動かして何かを作りだしていく「作る」という行為自体に興味があります。美術の持っているそういう特性というか「道具としての美術」に興味があり、それをテーマにしています。
美術の歴史、人間のそうしたいろいろなことを作り出していく創作の歴史というものであったり、加えれば、そういったなかに、これはみんながいいと思うから残した方がいいという傑作と言われるものからゴミのようなもの、もしくはある一人にとっては宝物になるようなもの。そういった作ったものに対してどういう価値がつくか、どういうものが生まれるかとか、そういったこと自体に興味があって私は作品を作っています。
この画像は、その作品を作っていく流れの中で、特に最初期にあたるものです。ものが生まれるというシンプルなその行為について考えるにあたって、この作品群は2001年ぐらいですか、研究生のときに作ったものなんですけど、そのときに考えたのが自分のなかのいろいろな性質とか、やりたいことを完全に分類して、それぞれの分類のところに工場として名前をつけて、平面作品を作ったり、写真を作ったり彫刻を作ったりいろいろなことをやったんですけれど、この作品はその中で「その場しのぎ工場」という作品で、木とマッチと油絵の具を使って、「燃える彫刻」という感じで作った作品群です。
こういうものを作っていく中で、その他には相関図のような作品であったり、自分のセルフポートレートの写真のシリーズであったり、いろいろな作品群が生まれたんですけど、その中で特に不思議な森の中をさまよう感覚で、いろいろな場面を描いたペインティングの作品があるんですけど、どちらかというとそれを作っていく中で、だんだんとそちらに引っ張られたというか、その作品にだんだんみんなが吸収されていって、最終的には工場として分類しない形を2006年からとって、森の中のいろいろな角度で描いたというペインティング群から派生した作品をどんどん作り出すんですけど、彫刻出身なんで、色に対してあまり免疫がなかったということもあって、非常に興味深くて、どんどん色の世界に入り込んでいくという感じでした。2006年、2007年、2008年ぐらいです。その中で、どんどん色は派手になっていったり、サイズもどんどん大きくなったり、要素もどんどん増えていってごちゃごちゃしていくんですけど、その最たるものとして、これは2009年に作った5メートルの木彫作品なんですけど、こういうところまで到達したというところがあります。
結局ここまで作って自分の中で、私はどちらかというと一つの手法とか一元的な見方でものを極めて行くというよりは、いろいろな側面からものを作るということについて考えてみたいし、自分についても考えてみたい。どちらかというと、自分は自分という人間が作り続けていくことで、どういうような軌跡を描いてどういうものが作れるのかなみたいな、ドキュメンタリー的な作品というか性質をもっていると思ってます。最終的にどうなるかはわからないですけど、ものを作るということに対してっていう考え方を最初に言いましたけど、僕の作品はそういう面のいろいろなリサーチというか実験のものの結果であって、リサーチとか実験したものが、私の中でスタイルとして積み上がっていくんですよ。そうした積み上がったものを最終的に使って、僕が何がつくれるか、というのが、自分の中で楽しみだし、自分の中で一番大きな表現の部分かなと。最終的に僕が死んだあと、その辺がどういう風につながって見えるのかなということはよく考えています。
さっきの彫刻の作品のように、これ以上色を派手にしたって大きくしたって意味がないと思ったので、この時期にいろいろ震災の問題であったり、経済的にも破綻していくという問題があったりして、少し行き過ぎた道を一回戻って、通らなかった道を一度通る必要があるかなという風に思いました。
これが2012年の個展で作ったものなんですけど。極端ですけど、ここで一気に色を排除して、油絵の具で自由に色を塗るんじゃなくて、オイルステインというホームセンターで買える木材を塗る塗料を使って作品を作りました。前はどちらかというとお金もがんがんかけて、極力派手で豪華なものを作っいたんですけど、実際このころ、今もですけどお金がなく貧乏なので、そんなときにお金をかけたものを作ったってリアルじゃないだろうと思うので、お金を使わないというのをテーマとしてありました。道ばたを歩いていていいかもと思ったものを拾ったりとか、友達からいらないものがあったらもらったりとか、近所にがらくた屋さんがあって、100円200円で買ったりとか、そういうがらくたと向き合って、さあ、どうしようか、おもしろいものが作れるかというのを考えながら作った作品群です。
さっき、スタイルが積み上がっていく感覚というのを言いましたけれども、大学生のときはこれは作れなかったなというのはありますね。結構難しくって。簡単に作ると本当にがらくたみたいな作品しか作れないんです。それだったらいくらでも作れるんですけど、そこじゃない線引きですかね。僕の中では高尚なアートでないような、郷土玩具とか、アウトサイダーアートとか、民芸品の類いとか、図画工作とか、日曜大工、そういう要素は好きなんですけれど、そういう要素を使ってどういうものを作れるかということまでいかないと意味がないと思っているんで、そういった中で2001年から2011年くらい、十年ぐらいいろいろやってきたことがここで生きたかなと思いますね。
普通に素朴になにかと向き合って、工夫して何かを生み出すというところに一回戻ったかなという感じがするのと、小さいサイズで道具的なものを作っていたりするので、より道具としての彫刻というか、手の中におさまる彫刻っていうような感覚というのもこのときは感じて、さっき言ったようないわゆるアートと呼ばれないようなものに対するものをアートとしてどう表現するかという、前からそういうものに興味がありましたけど、ちょっとリンクしたかなと思っています。
今回タイトルが「手法の触感」ということなので、その件についてもなんか話さなきゃなと思いまして。私は技法については全く意識したことがない。興味がないに近いですね。僕にとっては技法は、パワフルで重すぎる武器です。非常にパワフルなので重すぎてそっちにひっぱられているので、あえて持たないようにしています。技法的にいえば、平凡な彫刻を作っていると自分では意識しています。手法でいう意味でいうと、一つではなくて、そのときそのときで違います。
一番特徴的なものを今回選んできたんですけど、この絵なんですが、多分2009年ぐらいから描き始めて、この写真は2010年か2011年ぐらいだと思うんですけど、作品によってはこういうイメージ描きたいなと思ってそのままうまくいくのもあるし、描きたいなと思って挑むんだけどうまくいかないからなにか違う物になっていくというものもあるし、これは何も考えずに描き始めて、ちょいちょいいじりながら、ぐるぐるぐるぐるまわして、何って自分で決めないでどんどん描いていた絵なんですね。
2009年から描き始めて1、2年ぐらいたってこの状態になって、最終的にどうなったかというと、こういう風になったんですよ。今年できあがった作品で、縦長に伸びちゃってますけど、なんというか、中心に点が付いているのはよくわかると思うので、結果的にこういう風になって、割とスタンスとしては目的を持たないでふわふわ歩き回っていろいろ種をまいたり、事件を起こしてハプニングを起こしながら、なんだか少しずつ…少しずつじゃないな。ぐじゅぐじゅやっていて、そろそろ決めるかってなったときに、いきなりそのまま抽象画で出すのは僕の中では違っていて、急に具体的になったりとか、ここだ!という重みをつけるというか、ふわふわと見ていたものを、急激に現実に引き戻すみたいな感じで、ずばっと決めるというのが、いろいろな手法がある中での一つなんですけど、割と好きで、こういう作品もアトリエの中に放置している作品がいくつかあったりしますね。全くもって最初の段階では、こういう絵を描くとは全く思っていなかったということですね。
これも一番最近描いた大きい絵で、サイズ的には高さ230ぐらいで横が4メートル弱だと思うんですけど、150号を二つ合わせた感じです。ちょっとわかりにくいんですが、この真ん中で一枚、合計2枚縦に配置しています。
この作品の作り方は、中央に何か丸みたいなものがほしいかなあと漠然としたものはありまシタけど、それぐらいしか決めていなくって、いろいろやる中で、よくシュールリアリストとか、美術教室で使われる「デカルコマニー」という方法で、絵の具をピーッと紙において、紙を半分に折ってぺらっと剥がすと、あら不思議な絵ができたみたいな技法があるんですけど、これ何に見えますか?みたいな心理学的なところもあるんですが。これちょうど縦に2枚で描いていて、絵の具をある程度配置してから、さっとしめて転写させてまた戻して、上下逆にしてまた何かやったりとか、いろいろ回転させてみたりとか、いろいろしながらできた絵なので、最終的にタイトルも「転写、反転、渦巻き姫」というタイトルなったんですけど、こういう風に作る絵もあったりもします。逆にあっという間にできちゃう絵もあります。なので、手法はいろいろあるんですが、一番特徴的なのを紹介させてもらいました。あとは、彫刻と絵との関係とかいろいろあるんですけど…、これで終わります。

末永:
途中で切ってしまって申し訳ないです。ちょっとかなり時間を押してまして、本来8時半までだったんですけど、このような状態なので、このまま続けていってしまいます。沢山さんの方からそれぞれの作家さんに質問というかお話をしていただければと思います。

沢山:
はい。一人10分ということだったのですが、誰も守らない。末永さんだけ守っていたね。予定までは8時半までだったんですけど、ちょっと伸びてもいいということで、若干一人一言ぐらいになるかもしれないけど、ディスカッションして終わりたいと思います。
いくつかみなさんに共通するトピックができたと思います。今回は「手法の触感」というタイトルなんですけど、それは僕が付けたわけではないんですが、なんでこのタイトルがついたかというと、各々の出品作家がやっていることっていうのは、いわゆるブロンズ彫刻を作っているとか、油絵の具で絵を描いているとかということだけではなくて、独自の技法体系というものがあって、開発もしていると。話を聞いてもだいたいみんな技術開発をしている。何かを表現するために、技術を開発する。あるいは物質的な素材から、例えば染谷さんにしても紙をどうするとか、物質的な組成から作品を考えるというのがあって、そのために各々の手法の独自性みたいなのに注目するということで、今回おそらく「手法の触感」というタイトルが付いたと思うんですね。
それで今回シンポジウムでこういう作品の形成過程について、話していただくということになったのも、おそらくそのことと関係がある。どうやってこれを作っているのかわからないと、作品の理解が深まらないだろうというのがおそらくあったと思います。その中でみなさんの作品を見たりとか、お話を聞いていて、雑駁な印象ですけど、やはり「手法の触感」というところに関わるのですが、作品というものが一つの表象体験に一元化できないという部分がおそらくみなさん共通してあると思うんですね。油絵の具で絵を描いたり、ブロンズで彫刻を作っているのとは違って、今村さんとかにしても、技法としては版画なんだけどできあがったものは彫刻的な半立体物になっているとか、染谷さんもそうだけど、技法としては版画も使っているし、絵画の要素もあるし、ドローイングの要素も、デザインの要素もあるし、コラージュもしているし、染谷さんなんかは、虫でなんかいろいろやったりもしているという話もされていたけど、彫刻的な要素もあったり。それは、今村さんとつながっていると思いますね。
もう一つは、作品と作品ではないもの、道具とかとの関係も出てきたと思うんですね。それは岡本さんが作られたスプーンとかもそうだけど、作品ではあるんだけど、使えないと意味がない。純粋な造形芸術、鑑賞の対象ではないというのが、ここで語られていたということなんですね。
それは山本さんとかもそうだけど、民芸とか道具とか器物に関心があって、山本さんの震災後の作品というのは、レディメイドのプロジェクトと、自分の目標を結びつけてというかコラージュして、しかもオイルステイン塗って、あれは一種あたかも使い古された誰が作ったかわからないようなオブジェクトとして道具を作るという。それは、ヒグラシさんにも言えることだと思うんですね。そういう意味では、みなさんがやられていることというのは一つには、一元化できない複数の表象形式の交換、置換というか、あるいはその組み合わせがあって、複数の表象形式というのは、単に美術の内部で絵画と彫刻をブレンドしていますよとか、彫刻と立体をくっつけていますよということではなくて、芸術と芸術外のもの、端的にいうと、例えば岡本さんの作品の場合は、道具と作品の間をどう考えるのか、芸術と、そうではないもの、芸術と道具との違いをどういうふうに考えるのかという問題。それは、「手法の触感」というものに端的に現れていると思うし、各々の表現手法が一回自分の前に現れて、技術の組成から起こしていって技術開発から始めなければいけないというのは、そういうところに関わっていると思うんですよね。そういうことに対して、例えば岡本さんはどうお考えですか?
岡本:私が今制作している場所は、7人でシェアしているんですけど、みんな工芸からきているので、私が彫刻のバックグラウンドをもって創作活動をしているのは、明らかに組み立て方が違うというか。表現したいものも多分違うというか。何を言いたいのかわからなくなってきましたけど、バックグラウンドの違いってとてもおもしろく出てくると思うんですよ。私は彫刻の方からどんどん工芸の方に近くなってきて、技法もどんどん金工というものに近くなってきている。そこで見出していくんですけれど、その開発の過程もすごくおもしろくて、開発すればするほど、自分のバックグラウンドを感じるというか、ものの形とかをみても、木彫しているときは、形を取り除く作業をしながら形を作り出していくという作業をしていっていたんですけど、金工になると形を伸ばすとかくっつけていくとか、できあがった形とか。それを使ってもらう場に出したときに、要求されるものも変わってくるので、使ってもらうことによって強度がなければいけないとか、見せるだけだったら知らなかった強度について知ることができる。
使ってもらうことによって動きが加わってくるので、そこで要求される技術。見せる場が変わるとかあって、それで要求される技術とか、相乗効果でなってくるというのはありますね。

沢山:
岡本さんの話で今おもしろかったのは、美術から入ってきて道具を作ると、道具を作ろうと思って作る人と明らかに違うと。岡本さんの場合は、美術作家として道具を作ったときに、逆説的に美術という領域が持っているもののある種の不安というか、独自性というか、領域的な実践というのが浮かび上がってくるというのがあると思うんですね。そういうことに関わってくると思うんだけど、岡本さんの話でおもしろかったのが、道具を作るときに、実はその道具が複数の用途に転用されることを想定して、実は余白を作っていますという話がありましたけど、例えば道具を作っている工芸作家だったら、道具がどのように使われるか、明らかに用途として明確になければいけないと思うんですよね。それがプロだという認識で皆さん作っていると思うんですけど、岡本さんはそれとちょっとずれていて、道具と美術の違いって実はかなり難しい歴史がある。柳総悦とかから言い始めると、複雑な歴史があるわけですよね。だけど、端的に美術と工芸の違いみたいなものを無理矢理言うと、工芸は明らかに目的が設定されている。物の概念を設定する。スプーンだったら液体をすくえるとか、液体との関係によってその目的が達成してくるというのがあると思う。美術は基本的に、無用のものというか、どこに用途があるかというのは、各々の作家の中でしか言えないということがあるわけ。工芸におけるある種道具としての役割と、美術作品がどのように機能するかという機能性みたいなの実は言えないというのが美術のおもしろいところでもある。
また、芸術において絶えず批評というのが要請されるのがそこにあるんだと思うんですよね。道具だったら、批評というのは明らかに絶えず日常生活の中で行われている。これは使いにくいなというのは、これは批評ですから。美術だってそうなんですよね。美術批評家が別に手を貸そうとしているのが批評じゃなくて、絶えず批評にさらされている。だけど、平たく言うと美術作品にある種道具との違いでいうと言えるのは、そういう目的というのは、実は美術では外部で設定できないというのがある。美術作品の一つの批評性だったりするわけです。それが例えばカントとかで言えば、目的なき目的性というかもしれない。目的とは見えないけど、どこかで見えるようになる。そのときに、その作品のある種の優秀さというのが浮かんでくるというのがあるとしたら、美術と道具の違いというようなことは、目的が見えないところに道具の有用性とは違うある一つの作品体系の中で生まれる目的というのがいえるかもしれない。
そのみなさんの作品で、例えば山本さんの作品で、レディーメイドといわれることが多いかなと思うんですよね。特に最近の作品とか見ていると。単に拾ってきたものだけ使っているとか。だけど、レディメイドって、マルセル・デシュシャンとかそうだけど、あれは、便器をもってきて展示してサイン入れて、それは作品ですよというようにしたわけでしょ。だけど、あれば実は男性の小便器を横たえた状態にして展示して、つまり使えなくしてこれは美術作品だという。無用になったとたんに、これは美術作品だというんですね。例えば、最近だと松濤美術館でぞうきんを展示して、これは美術館の中で見ると芸術作品だというのが、デシュシャン的なやり方だと思うんだけど、おそらくここで、このCSPということでやられているのは、それと逆だと思うんです。単に道具が死んで作品になりましたということではなくて、死んだあとにどういう風に有用性を見出せるかという駆け引きがあると思うんです。それは、染谷さんの原風景にもつながっているかもしれないけど、死体をどのようにして別のものに転用するか、転成させるか、生かすか。だからそういう意味ではヒグラシさんがやられていることは、端的に言うと銃をもう一回作って、それを使えなくして…、溶けるものだから、破滅、消滅へと向かうものとして作っていく。死体を作っているというふうにも見えるかもしれないけど、物理的にはそうだけど、理念としては違う有用性がある。銃を消滅させるというのは、それ自体が有機的な目的だから。倫理的な有用性がそこにある。目的といったとき、道具的な目的ではないけど、道具的な目的ではないところに設定しうる目的性みたいなものは、考えるに値する。それは山本さんが言っていたように、自分という単位を超えて、作品というのはどのようにして伝承されるのか。道具というのは、端的にそういうわけでしょ。道具の寿命は人間より長い。だから古道具という業界があるんですね。誰かが使ったものが、僕なんかも買ったりすると誰かの名前が入っている。これは僕が使ったあとに誰かが使って、骨董というのは、どんどん伝承されていく。山本さんがやられていることって非常にアンビバレントだなと思うのは、山本さんがやられていることは、道具というものを導入してこれを作っているというところです。これなんかは、デュシャン的にいうと、横にして使えなくしているわけです。だけど、山本さんが言われていることというのは、単にこれを自分のクレジットでやるというよりは、自分のはかない存在を超えた単位で、自分のクレジットを超えて伝承されていく可能性みたいなのを道具にも、自分の作品にも対等に見出すことができるのかどうかというところに、なにか一つの可能性みたいなものが隠されているような気がして、おもしろいなと思いました。山本さん、どうですか?

山本:
範囲が広すぎて難しいところなんですけれども、確かに、この彫刻を施すことによって、いすがもっとよくなったとは特に思っていないところはありますね。むしろ寄生させてもらったというか。あとは、自分の行為というのと行為でない部分というのを目に見える形にしたかったというところですね、道具を使ったというところは。
目的としてどういうものが、より多くの人に「これはとっておくべきか」と思われて、長い年月大事にしてもらえるんだろうか、なんでこれはそうなんだろうかということには興味があります。そういう意味では、古道具というか民芸なんかでも、残されるものとそうじゃないものがある。そういう物の差はなんだろうということを意識したということと、あとは、こういう単純に木で作るというのではなくて、こうしたアプローチするということ自体が僕のスタイルとしていいものになるのではないかという思いもあります。なので、直接的にこの作品が完結してこの作品がそういうものをのせて伝承させていきたいんだという思いを込めて作ったものでは、決してないです。

沢山:
道具が残っていくプロセスって非常におもしろくて、なにかものが残っていくのって、なんというか匿名の人の批評が入っているわけです。個人が「これは良いものだから残せ」と言ったのではなくて、なんとなく残しておけば使えるというものが残っているんです。ここでは批評的な合法則性みたいなのが入っています。だけどそれは、誰かの批評ではなく、むしろ非人称的な批評ですよね。例えばあるスプーンが使いやすいというのも批評、渋谷駅が使いにくい。批評という感じで。そういう批評に作品がさらされる状況に置くという感じ。そういうニュアンスに近いと思うんですよね。

山本:
それは思いますね。

沢山:
美術の世界で、僕は批評家と言う風に言われますが、そういうものとは関係ないところの批評の体系というものが確実にあって、そこに、自分の作品をのせるということ。それは明らかにあると思うんですよね。
どうしましょう。今村さんとかは何かありますか? 自分の作品、例えば表現形式としてどういう風に、「僕の版画です」とかいうふうな言い方をするんですか?

今村:
版画という意識は全くないんですけどね。今回の「技法の触感」ということなんですけれど、それについてなんですが、実は僕も技法というものをあまり意識したことがないんですよ。ただ、人と違うことをやっているから、意識していないのはどうなんだと言われそうですが、僕はシルクスクリーンを始めたときからこれをやっているんですよね。だから、油絵を描く人が絵を描くのとそう変わらないような意識なんです。上に積み上げていくので、次はもっとという風につながっていくんですよね。

沢山:
最終的に目指すところはどこなんですか?

今村:
最終的に目指すところというのは、ないんですが、僕が何を目指しているのかというと、ちょっと抽象的なのですが、光みたいなもので、誰しもが感じるドキドキする気持ちとかって宙に浮くような感覚ってありますよね。それを僕が一番大きく感じるのは山の中なんです。すぐにバスとかで行ける場所ではそういうことは感じられないのですが、その体内の水分がこの山の水分で満たされるくらい自然の中に体がとけ込んだときに、ちょっと見せてくれる風景というのがあって、すごくその体験というもの、僕は光だと思っているんですけど、それを見たときにすごくドキドキしたことがあって、きっとその風景というのは、地球ができて、できたときから変わらない風景なんですね、きっと。それは自然の大きな美しいものなんですけど、そういうものを見たあとにある作品に出会ったことがあって。オランダでなんですけど、モンドリアンとゴッホだったんですけど、その作品を見たときに、この作品がすごく大きく見えたことがあったんですよ。その神々しさはなんか体感したことがあった。光みたいなものに似ていて、僕が自然の中で見た光とすごく近いと思ったんです。そのときに自然の中にいたときは、自然特有の美しさみたいなものだと思ったのが、人の作品の中からそういったものを感じることができるんじゃないかと初めて思って。人が作り出すものでそういったものを表現したい。僕もそういったものを作品が発するようなところを、すごく抽象的ではありますけれど、目指しているところが自分自身の中にあります。

山本:
そういう手法というか技法というか、多分本人たちは技法という風には思っていないけれども、自分の中で必要なものをやっていった結果、そういうようなことになっていくような、こういう手法比重を置いた展覧会のような気がしたんですけど、これは非常に当たり前といえば当たり前のことで、オーソドックスなことじゃないですか…、という風に自分では認識しているというか。僕は非常にそういう意味では、自分の作品がやぼったいなと感じているんですけど、そういうものを今ここでテーマとして出すということにどういうような意味があるのかなというところが、沢山さん的にどう思うのかなというのが気になることなんですよ。

沢山:
繰り返し言いますが、僕が考えたことではないんですけれども(笑)。冒頭に言ったことと関係してくるんだけど、みなさんは、技法開発にかられているところがあって、それは、ほとんどの作品は置かれている状況というのは、一つの今までやられた技法を踏襲できれば開発する必要はないわけでしょ? ということは、絵画を制作するのではなくて、絵画というジャンルを作って絵画を作る。これが例えば染谷さんとかがやられていることだと思うんですね。組み合わせ、組成から考えてそれを改めて絵画として提出する。そういう絵画というものを引き受けるにしても、「手法の触感」というのはそういう意味だと思うんですね。改めて組成を考えると。ジャンルを引き受けるにしても、山本さんにしても彫刻を作っているんですけど、外部的にはこれは彫刻ですとジャーナリスティックに言われると思うんだけど、彫刻というものの持っている組み合わせを、物質的な組み合わせを一回解体して再構成するという作業。それが技法の触感、テクスチャーというものに関わってくると思うのです。そういう面はおそらくあると思います。そういう意味ではみなさんの作品というのは複数の表現形式の交換であるとか置換であるとか、置き換えというのは、あらかじめ組み込まれていて、だけど一方で今村さんが先ほど説明されたように、実はこの彫刻、彫刻と言ったら怒られるけど、立体的なシルクスクリーンは、実はシルクの技法に極めて忠実に準じた結果、こうならざるを得ないでしょというわけです。だって、積層するんだから。版画というのは、そもそもレイヤーなんです。レイヤーという観念がすごく強い訳です。だから、浮世絵にしても、全く違うプレートが組み合わさって、複数の色彩を重ねることで一つの作品ができあがるという意味では、版画活動が複数が重ねられて、一枚の絵画がつくられているということが言えると思うんです。複数性があると、一枚じゃない状態が版画だと思うんですけど、染谷さんの作品にはまさにそういう風になっていて。積層という概念が入ってくる。なぜそれが入っているかというと、そもそも版というものから絵画を始めたということとすら関係があるということは言えると思うんですよね。そういう意味で言うと、「手法の触感」というのは、そういう、表現形式、組成それ自体が持っている複数性に関わるというのが僕の解釈です。
ということで、もう8時50分になります。なにか一言あれば。話してない方。大丈夫なら大丈夫で。質問の時間はないということで。一つもないですか?会場から一人だけ。

末永:
会場から、時間がないので、1名だけになってしまうんですけれど、ご質問何かありましたら。ないですか。では、これで。

沢山:
シンポジウム、かなり時間が押しておりますので終わりたいと思います。どうもありがとうございました。