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2009年度卒業式 諏訪学長による式辞


学長式辞写真 2009年度第41回卒業式式辞

本日ここに卒業式を迎えられた425名の皆さん、おめでとうございます。あなた方は本日めでたく学士の学位を得ることになりました。心からお祝い申し上げます。また、卒業生を長い間支えてこられたご家族、保護者ご関係の皆様にも、心よりお慶びを申し上げるとともに、これまでのご支援に深く感謝申し上げます。
皆さんは、本日この祝福のセレモニーが終わると、毎日通ったこのキャンパスを去り、それぞれの場所に旅立ってゆきます。今世界はさまざまな矛盾が露出する困難な時代を迎えており、皆さんは希望を押しつぶしてしまいそうな大きな不安を抱えているのかもしれませんが、私には、みなさんの旅立ちが、あたかも結晶したクリスタルの破片が小さな輝きを放ちながら、全国に、または世界中に飛び散ってゆく映像として想像されます。

本日、私は自分のささやかな経験から皆さんにひとつのことだけをお話ししたいと思います。それはプロフェッショナルとは何か?ということについてです。これからあなたたちが社会に出てゆくと、さまざまな場面でこの問いに出会うのではないかと思います。

学長式辞写真 私は現在映画を制作しています。大学卒業後はさまざまな仕事をしましたが、初めてテレビジョンのドキュメンタリー番組を担当した時に、テレビのニュース映像を撮影する報道キャメラマンを取材しました。 テレビのニュース映像というのがどのように撮影され、作られているのかを知りたかったのです。彼らの仕事は過酷です。昼夜を問わず、テレビ局にスタンバイし、ニュースの第一報が飛び込んでくると、 ほかのテレビ局よりも一刻も早く現場に到着すべく駆けつける。実際には事件や事故はすでに置きてしまった後で、現場に核心的なものは何も残されていません。あるいは警察の手によって、 現場から報道関係者は閉め出され、撮影すべきものは隠されています。それでも彼らは何かのニュースの痕跡を血眼になって探し、カメラを向けなくてはならない。例えば大規模な惨事があって、 家族を失い、途方に暮れる家族がいたならば、カメラマンはその悲惨さを伝えるために間違いなくカメラを向けるでしょう。もし、あなたがその現場にいたら、おそらくそんなことは出来ない。他人の悲しみにカメラを向ける残酷さに耐えられないからです。それはあなたたちがプロの報道カメラマンではないからです。私が取材したプロのカメラマンたちが、もし現場で皆さんと同じように、カメラを向けることが残酷だと思ったから撮影しませんでしたと、テレビ局に帰って報告したならば、上司に怒鳴られることでしょう。アマチュアのようなことを言うな、お前はプロなんだから、と。
しかし、その時カメラを向けることが残酷であると感じることは、人間として当然の感性です。ですから、プロであるとは、その人間としての当然の感性を括弧に入れ、一時停止させることにほかなりません。これは例えば医師が手術をする時にもいえることです。私たちは他人の体をメスで切り開くことは困難です。しかし医師は、その人間としての当然の感性を停止させる訓練をすることで、医療を貫徹します。それがプロフェッショナルの前提です。しかし、医師でも自分の肉親を手術することは難しいそうです。私が取材したのは若いカメラマンたちでしたが、仕事が終わった彼らと酒を飲んで話すと、みながそのプロとしての冷徹さに悩んでいるのでした。なぜ私はそのようにしてまで、他人の悲しみや,不幸にカメラを向けなければならないのかと。仕事中そんなことはいえません。プロを前提とするシステムにおいて、それは弱さとして、役に立たないものとして、戦力外として否定されるしかないのです。しかし、その時の彼らは、単に酒を飲んで仕事の愚痴を言っているのではありません。停止させていた人間を再起動させているのです。彼らは仕事をしている時の自分とのプロではない人間としての自分との間で引き裂かれているのです。私はみなさんに冷徹なプロになりなさいといいたいわけではありません。先ほど、プロであるとは人間としての当然の感性を括弧に入れる=一時停止することに他ならないといいました。しかし,停止させた人間としての当然の感性は、いつでも再起動できなくてはならないのです。私たちはいつでも単に人間であることに立ち戻ることができなくてはならないのです。

学長式辞写真 社会に出ると悪しきプロフェッショナルたちがあなたたちの前に出現するかもしれません。悪しきプロとは人間としての当然の感性、アマチュアの感性を括弧に入れたままその括弧を外せなくなった人のこと、人間を再起動できなくなった人のことです。優れたプロのカメラマンは悩み続けます。悪しきプロフェッショナルはもう悩まないのです。 あなたたちは大学において、さまざまな課題に取り組んできました。あなたたちの仕事は確かにプロフェッショナルなものではありません。私たちが要求したのもプロフェッショナルとしての仕事ではなかったはずです。さまざまな課題に,あなた自身が人間としてどう答えるか。そのことを問うたのではなかったでしょうか。皆さんは誰かのため、誰かの利益のため、人間とは無縁のシステムのために仕事をしたわけではありません。あなたはあなた自身に問いかけながら、この線でよいのか、この色でよいのか、この形でよいのか、この言葉でよいのかと自問して来たのでした。それはプロとしてではなく人間としての仕事なのです。私が最初に申し上げた皆さんの中にあるクリスタルとはそのような人間としての仕事の中で結晶したもののことなのです。そのクリスタルはあなたたちが子供の頃、絵を描くのが好きだったり、工作が好きだったり、空想することが好きだったりした頃から育ち始めたものです。自分がやりたいという自由において行う行為、それを愛しているから行う行為、その圧倒的に人間的な営みがクリスタルを結晶させて行ったのです。

学長式辞写真 あなたたちがここで日々取り組み、習得した専門性は、プロの現場においては何に役にも立たないといわれるかもしれません。具体的な成果を上げるために、戦力となるためにあなたはクリスタルをそっとポケットにしまい込んで、プロになる努力をしなくてはなりません。会社へ就職せずに卒業後も何とか生活をしながら、自己の創作を続ける決意をした人も、大きな社会システムのなかで生き残るために、知らないうちにそのクリスタルを見失ってしまうかも知れません。ただ、生き残ることは重要です。どのような道で生きるにせよ、どうかくじけないで、たくましく自己を鍛え、それぞれの専門性を高めてください。システムから逃げることは出来ません。どんな仕事でもよいのです。ベストを尽くし、求められるなら優秀なプロフェッショナルになってください。しかし、そっとしまい込んだクリスタルをいつでも手に取って見つめ、人間であることを再起動させ、自己の仕事が常に人間の側にあるベきであることを思い出し、悩み続けてほしいと思います。フランスの映画作家ジャン=リュック・ゴダールは、私はプロに対しては自分はアマチュアであると主張する、アマチュアに対しては、自分はプロであると主張する.といいました。それは人間的に創造に関わるひとつの戦略なのだと思います。創造とはシステムではありません、か弱い生き物の仕事なのです。

今私たちの目の前に広がっている不安、世界の困難や危機的な状況とは、単なる経済の問題ではありません。そのうち景気が回復すれば何とかなるような問題ではなく、私たちが作り上げてしまった巨大なシステムが、か弱いもの、非力なもの、名付けようのないもの、つまり人間的なものを圧倒的な力で排除しようとしているということではないでしょうか。 私自身が制作する映画は、強大なスペクタクルや空想ではなく、男と女の些細な諍いや、大人たちの葛藤に翻弄される子供たちといった、社会の巨大なシステムからはこぼれ落ちる、か弱く、とるに足らないものを物語ろうとして来ました。そのような日常的なちいさな悩みが、けっしてくだらないことではなく、無意味なものでもなく、人間的なものであることを示し、ただそれを讃えようとして来たつもりです。自信はありません。自分がなすことが社会に貢献しているなどとは到底思えませんが、それでも可能な限り人間の側に寄り添いたいと思っています。 美術大学を卒業した私たちは、ある種のマイノリティだといえると思います。それは創造に関わることが,圧倒的に人間の側にあるということだと思います。マイノリティは非力で、巨大なシステムの力からは無視され、排斥されるかもしれません。しかし、機能不全を起こし崩壊しつつある現代の多数派のシステムとは別のところで、マイノリティたちのまだ名付けようのない小さな運動が、人が生きるための新たな力を生成させる可能性を持っていると私は信じています。
皆さんのクリスタルがいつまでもその輝きを失わずに、あなたの手の中に握られていることを願い、祝福の言葉とさせていただきます。

東京造形大学学長 諏訪敦彦