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2009年度入学式 諏訪学長による式辞


学長式辞写真 2009年度 入学式式辞
468名の学部入学生、ならびに55名の大学院入学生、6名の編入学生の皆さん、入学おめでとうございます。新しく東京造形大学の一員となられた皆さんを、心から歓迎いたします。また、ご家族ならびに関係者のみなさまにも、心よりお祝い申し上げます。

今、あなたたちの目の前にこうして教員が向き合い、あなたたちの周りには、まだ話したことのない友が座っております。
私たちはまだ互いを知りませんが、これから果てしなく交わされるであろう私たちの議論や、創造の苦悩や喜びを分かち合う友との会話、そのような生涯忘れることのできない出会いや出来事を、今この場所はすでに孕んでいます。皆さんに向けて、その新しいスタートの第一声をこうして発することができることに、私は大きな喜びを感じています。

少し個人的な話をさせていただきます。今から30年前、私は皆さんと同じように東京造形大学デザイン学科映像専攻の新入生として、入学式に列席していました。後方の席から、壇上のある先生のことをじっと見つめていたのを覚えています。それはその先生の教えを請うというような謙虚なものではなく、その先生にそれまでの18年の人生を賭けて挑むような生意気な視線だったと思います。もちろんその時その先生が私の視線に気づくはずもありません。私はまだ自分が何者でもないのにもかかわらず、「この私を見よ」と心の中でその先生に念じるような、根拠のない自信に満たされていました。しかし大学生活がスタートすると、その自信も長続きはしませんでした。ある時はそのような根拠のない自信に満たされ、またある時は理由の無い自信喪失に苛まれる。大学生活とはそのような事の連続だったかもしれません。

学長式辞写真 印象的な同級生との出会いがありました。彼はわれわれの会話の最中によく「分からない」といいました。私が何か意見を述べると、彼は「君の言っていることが分からない」と言うのです。特別なことではないように思えるかもしれません。しかし、私がいくら言葉を尽くしても、彼はなかなか納得しない。「うーん、分からない」というのです。私はそのとき、自分が他人から「分からない」といわれる経験をほとんどしてこなかったことに気づきました。
日本的な共同体のコミュニケーションにおいては、常に「分かり合う」ことが尊重されます。「この漫画面白いよね」「そうだね」とつねに「ね」という呼びかけによって、互いが同じ価値観を共有していることが強調されます。「この音楽いいよね」という呼びかけに「そうかな、分からない」というと,その人は共同体からはじかれてしまう。われわれの共同体意識はそのように内部と外部を選別しようとする。KYということばがはやりましたが、それはそのような内部を作り出そうとする言葉です。しかし、そのような「私たちは同じである」ことを強いる関係は相手が私と違う人間である、つまり「他者」であるということを殺してしまうのです。相手に対して「分からない」ということは,基本的に「私とあなたは違う」ことを尊重する態度なのだと私はその友人から教わりました。彼はやっかいな存在でしたが、自分の理解し得ない他者とかかわることは,そのやっかいさ抜きには成立しない。それが外部とかかわることの第一歩であり、社会とかかわることに通じてゆくのだと私は思います。

皆さんの多くは、今は自分を語る言葉を持っていないかもしれません。言葉では自分の考えていることがうまく表現できないから、デザインや美術という表現を選んだのではないでしょうか? 自分が考えていることを言葉で言ってしまうと、何か違う、うまく表現できない、言葉の嘘くささが嫌だ。その気分は理解できます。しかし、「うまく言えない」と言ってしまえば、あなたの考えは守られるのですが、あなたはあなたの外部に触れることはない。あなたの意見に、他人が「私はそう思わない」と反論することもできない。自分の言葉で自分の考えを話すということは、あなたの友に反論を許すということであり、他者との関係を築き上げる基本的な態度なのです。

学長式辞写真 恋人とつきあうことが難しいように、他者つまり外部とかかわることはやっかいです。私は学生時代にこのやっかいさから身を引いて、自室に閉じこもったこともありました。ほとんど外に出ないで、誰とも会わずにどれだけの時間耐えられるのか実験したのです。やがて世界と隔絶していることに耐えられなくなり、私は作品を創ろうと思い立ちました。自分の映画を作ろうと。しかしどうすればいいのか分かりませんでした。私はまず友人に電話をしました。私の映画を手伝ってほしいと。映画を作ることは電話をすることなのだと、その時気づきました。それは簡単なようでやっかいなことです。自分のために人を煩わすことにはリスクがあります。迷惑がられるかもしれない。断られると自分は傷つく。しかし、この他者とのやっかいさなしに、わたしの映画は生まれなかったし、世界との関係はないのだということに私は気づかざるを得ませんでした。

大学とは気の合う仲間が寄り添う場所ではありません。同じ価値を共有する友との楽しい会話は人生にとって必要なものではありますが、大学において、あるいは創造行為において重要なのは、簡単に分かりあえないことを前提とする他者との関係なのです。この場所にこの宇津貫の山の中に様々な他者を招き入れ、時間や空間を超えた外部=世界への回路を開いてゆくこと。大学とはそのような営みの場所だと私は思います。
本学の創立者桑沢洋子はデザイン美術の今日的な意味について次のように発言しています。「それは単なる自己表現というより、社会に責任を取る表現であり、デザイナー美術家は、現代の社会や産業が孕む矛盾を解明する文明的な使命を持たなくてはならない」この理念にある「社会」という言葉をみなさんはどのように理解するでしょうか?この言葉を理解することは出来るかも知れません。しかし、実践することは簡単ではありません。私自身、自己の表現活動が「社会的な責任を取る表現」であるかどうか自信はありません。

学長式辞写真 こうして入学式を迎えたあなたたちも、今は社会ではなく「自分」の事を考えているのではないでしょうか?「自分はこんな絵が描いてみたい」「こんなデザインをしてみたい」それでよいのだと思います。先ず精一杯自分を表現してください。しかし、大事な事は自分が自分である事とは、共同体の内部から外に出るという事です。あなたとあなたの目の前にいる人間が他者であるような場所に出る事、それが本当の思考であり、創造に関わるものの立つべき場所なのではないでしょうか。

私たちはあなたたちに、あなたたちの知らないことをただ教えるためにここにいるのではありません。私たちは先ずあなたたちの最初の他者でありたいと思います。そして重要な事は、私たちが簡単に理解し合えないからと言って、その関係をあきらめず、知りたいと思い、理解してほしいと願い、その関係を持続してゆく事なのです。そのような「やっかいさ」こそが「社会に責任を取る表現」へとつながってゆくのではないでしょうか?

東京造形大学では、今年度から2010年の完成を目指して、新しい校舎の建設が始まります。食堂やクラブハウスがここに入り、学生生活をより充実させるとともに、絵画アトリエがすべてこの新しい校舎に移動します。建物の中央に大きな吹き抜けの空間があり、ここにみなさんが集い自由に語り合う広場(=PLAZA)が生まれる事を期待して、ここをCS PLAZAと呼びたいと思います。
その広場において、皆さんのさまざまな他者との出会いが生まれ、世界への回路が穿たれ、創造の渦が生まれる事を願っています。
以上を本日の式辞と代えさせていただきます。

本日はおめでとうございました。

東京造形大学学長 諏訪敦彦