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2008年度卒業式 諏訪学長による式辞


学長式辞写真 平成20年度第40回卒業式式辞

本日ここに卒業式を迎えられた407名の卒業生の皆さん、おめでとうございます。また、卒業生をこれまで支えてこられたご家族、保護者の皆様にも、心よりお慶びを申し上げるとともに、これまでのご支援に深く感謝をいたします。
私は昨年度から東京造形大学の学長に就任しました、こうして皆さんに語りかけるのはこれが初めてであり、また皆さんにとってはこれが最後ということになります。皆さんは本日東京造形大学を去ってゆくわけですが、しかし、私は本日が皆さんと本学の新しい関係の始まりであると思っています。その思いを込めて、これから皆さんに話しかけたいと思います。

学長式辞写真 個人的な話になりますが、今から24年前私は皆さんと同じように、東京造形大学の卒業式に望んでおりました。そのときの私は、まだ就職や進路について何も決まっておらず、将来についての明確な目的や計画もないままその場にいました。それでも当時の私は「まあ、何とかなるだろう」という根拠のない呑気さに身を任せていたように思います。今から振り返れば、それは私個人の気分というだけでなく、その時代の持っていた楽観的なムードと無関係ではなかったと感じます。80年代バブル崩壊を体験する前の日本は、「Japan as No.1」」といわれ、自己の経済的な成功だけを謳歌する、ある種の楽観的な呑気さに包まれていたように思います。そこでは世界的な問題や危機意識が共有されることはなく、国際社会から無邪気に孤立した日本の特殊な姿が見えてきます。しかし、皆さんが社会へ出てゆこうとしている現在、その頃のような呑気さはなく、厳しい現実と、先の見えない漠然とした不安、危機感を一人一人が深く抱え込んでいることを、私もよく知っているつもりです。これから皆さんが飛び出してゆく世界は、決して薔薇色ではないことは誰の目にも明らかです。
しかし、それは決して悪いことではない、と言いたいと思います。80年代の日本は無邪気なお祭りムードでしたが、そのような気分を世界はまったく共有していないという状況に気づかない、という他者を欠いた楽観主義のなかで、日本はその時代に何もクリエイティヴなものを生み出さなかったといえるような気がします。みなさんは、そのような孤立した日本ではなく、世界の問題を皆さんの皮膚感覚を通して今まさに実感している。つまり皆さんの感じる不安は、世界の問題と直接つながっており、それらにどう立ち向かってゆくのかは、あなた個人の問題であると同時に、世界の問題でもあるからです。

本学の創立者桑沢洋子先生は、今日のデザインや美術は「個人の表現というより、社会に対して責任を取る表現」でなくてはならないという趣旨の発言をしています。これは本学の教育理念のひとつであり、私たちも日々の教育において、「社会に対する責任」について、強く意識してほしいと願っています。しかし、社会における問題はあなた個人の問題と無関係ではないということを、今日ここでもう一度確認したいと思います。

学長式辞写真 私の専門は映画ですが、最初の作品を作った時、ただ自分のことを考える以外に何も余裕はありませんでした。自分の追究したことが、他人や社会にとってどのような意味があるかなどということは、皆目見当もつきませんでした。私の作った映画は、同棲する若いカップルの関係が、崩れてゆくという内容でした。些細な貧しいテーマです。自分でもそう思いました。こんな貧しい映画に、いったい誰が関心を持ってくれるのか?と。しかし、その映画をたまたま見てくれたアメリカの映画作家ロバート・クレーマーという人が、次のように私に話しかけてくれました。「私は自分のために作ったと思える映画が好きだ。有名になりたいからでもなく、金を稼ぎたいからでもなく、映画の知識をひけらかすのでもなく、自分のためにどうしても立ち向かわなければならない問題があるから撮ったのだと思える映画が好きだ。だからあなたは主観的であることを恐れる必要はない。私は私の問題についての映画を作る、しかし、その問題に一体誰が関心を持ってくれるだろう?と恐れる必要はないのだ。もしあなたが、あなた自身の問題をきちんと見つめるならば、その作品は必ず人々の関心を引くだろう。なぜなら、この間違いだらけの社会において誰もが問題を抱えて生きているのだから」自信を失いかけていた私は、その言葉で立ち上がることができました。

私は昨日クロアチアから帰国しました。ザグレブ大学の学生とのささやかな交流が目的で、そこで本学の学生が制作した映画作品を上映しました。それは学生の個人的な問題意識を題材にした作品だったのですが、内戦の記憶も生々しい、歴史的な背景も社会の置かれた状況も違うザグレブの学生たちに、その日本の映画が深い共感を生み出したことを目の当たりにして来たばかりです。  私たちは創造行為において自己の問題に関わるあまり「自己満足である」と批判されることを恐れます。しかし、自己の問題を棚上げにして、社会に関わることなどできないのではないでしょうか。個人の問題に関わらない表現が、いったい誰の心を動かすことができるでしょう?
「世界同時不況」や「政治不信」や「格差社会」というわかりやすい言葉でメディアが語る危機感は、制度=システムの問題としてこれを語ろうとし、その解決方法をあれこれ議論するのですが、そのようなわかりやすい言葉は、みなが個人として問題を考えることを奪ってしまいます。

学長式辞写真 皆さんはさまざまな形でこの4年間創造行為に関わってきました。授業ではたくさんの課題が出され、必死で制作し、講評を受ける。その時どんなに理論武装しようとも、客観的であろうと努めてもあなたが引いた線のひとつひとつや、あなたが選んだ素材や、あなたの作った物語のなかにどうしようもなくあなた個人というものが現れる。だから、講評というのはある意味恐ろしいものです。そこにはあなた自身が晒されてしまっているので、自分の表現が先生や友人に否定されたら、自分自身が否定されたような気になるからです。日常生活においても社会生活においても、だれも自己をさらけ出すことは恐ろしいし、自分自身を裁かれたくはないはずです。しかし皆さんはそれを4年間実践して来た。これは過酷ですが、創造に関わるということは、個として問題を考える大きなトレーニングでもあるのです。大学にいる間は気がつかなかったかもしれませんが、皆さんは知らないうちにその過酷さのなかで、個であることを恐れないという力を身につけているはずです。どうかそのことに自信を持っていただきたい。そして,個として考えることをどうか恐れないでほしいと思います。

あなたはどうして映画を作るのですか?と聞かれることがあります。本当は答えようのない質問ですが、私は次のように答えることにしています。「すこしでも、自分がよりよく生きるために」と、そんなふうに答えるしかない私が今日ここで皆さんに対して「社会に貢献することを期待している」などという、一方的な期待を押し付ける気はありません。まずは、あなた自身がよりよく生きるために、東京造形大学での経験を役立ててください。個であることは、楽ではありません。時に孤独でもあります。しかし、先ほど紹介したロバート・クレーマーは次のように励ましてくれました。「もしあなたが孤独であると感じるならば、それはあなたが自分のやるべきことをやっているということの証です。現代の日本において、孤独であることはあなたを打ちのめしてしまいますか?それより、あなたをまっすぐに物事を見つめる正直な人間にするのではないですか?もちろん、無理をして孤独になる必要はありませんが」と。

あなたはこれから企業の一員となったり、制作を続けたり、教育に関わったり、美術デザインとはまったく関係のない世界に出てゆく人もいるでしょうし、あるいは家庭を築くという大変な仕事に専念する人もでてくるでしょう。ひとりで生きるわけではありません。あなたを助け、理解し、あるいは対立する様々な出会いと関係の中で生きてゆきます。あなたの「個としてよりよく生きるための追究」が、今後あなたの築いてゆく社会=関係性において様々な形で広がり、展開されることを願っています。そして、そのような個的な営みこそが世界とつながっており、よりよい社会を実現するための大切な営み、つまり「社会に責任を取る表現」であると私は信じています。
以上を祝福の言葉とし、皆さんに送ります。
本日はおめでとうございました。


東京造形大学学長 諏訪敦彦