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2008年度入学式 諏訪学長による式辞


学長式辞写真 新入生の皆さんおめでとうございます。新しく東京造形大学の一員となられた皆さんを、心より歓迎いたします。
私は、今年度より学長に就任いたしました。皆さんと同じ一年生の学長としてこれから4年間、皆さんとともに、新しい東京造形大学を作ってゆきたいと思います。

本日ここに立って、皆さんの顔を見ながら思い出すことがあります。29年前、私は今の皆さんと同じように、東京造形大学の新入生として、入学式の会場にいました。その当時は元八王子の校舎でしたが、その時の光景を今思い出しています。本日は学長として、と同時に一人の先輩として、皆さんにお話したいと思います。少し個人的な話になりますがお許しください。

私は映画を専門としています。高校で初めて小さな8ミリカメラを手にした時、映像で自分を表現したいと思うようになりました。そのころ、個人的な表現としての映画を学べる大学は本学を置いて他にありませんでしたから、私は迷うことなく東京造形大学への入学を希望しました。その当時は創立からまだ13年の若い大学で、新しい教育への情熱に満ちた先生方から受けたユニークで先端的な授業が、現在の私を支えてくれていると今、感じています。
その時の先生方が、今ここに何人もおられますので、その先生方はご存知なのですが、実は私は優秀な学生ではありませんでした。

学長式辞写真 大学生という存在は、自由であると同時にどこか曖昧な存在でもあります。家庭の保護からは半ば離れていて、しかし社会の一員としての責任を少し猶予されているという中間的な存在です。ある意味で中途半端な存在といえるのかもしれませんし、皆さんの中で、早く大学の外の世界に出会いたいと、いつかその中途半端さに苛立ちを募らせる人がいるかもしれません。
実際、私は、そのことに苛立ち、入学後一年で大学を飛び出しました。ストリートで制作するインディペンデントの映画作家たちと出会い、助監督として彼らの映画作品に関わることになりました。現場での経験は大学の授業とは違い、全てが具体的で、実践的でした。頭で考えたり話したりするよりも、走ったり、声を出したり、体を動かすことが重要でした。気がつくと、私は短期間の間に10本以上の作品にかかわり、半ばプロフェッショナルなスタッフとしての経験を身に着けていることに気づきました。
その時、私は、もう大学での教育は必要ないのではないか。と感じました。大学に求めるものは、もう無いように思えたのです。

しかし、ふと大学に帰ったとき、私の同級生が思考し、制作する映画が、私の経験した映画とまったく違うことに驚きを覚えました。同級生には私のような経験はありませんでしたが、習慣や作法に左右されない自由な発想の作品を制作していましたし、授業の中では、最先端の理論を巡って教師と学生がディスカッションを繰り返していました。理論というものを、現場の人間は軽蔑します。「君たちが大学で学んだ理論なんて、実際の現場では役に立たないのだ」と彼らは思っています。彼らは経験したことしか信じませんが、経験したこと以外の発想を創造することはできません。私もそうでした。私は自由に映画を作れると思っていましたが、実は狭い業界の習慣や作法ばかりに縛られた悪いプロになろうとしていたのでした。私は経験という檻に閉じ込められていたのです。そのことに気づき、私は大学に戻りました。

学長式辞写真 私は大学で「知」インテリジェンスというものと出会ったのだと思います。「知」とは単に本に書いてある知識のことではありません。大学における「知」は あるときは教師の言葉の中に、友人との会話の中に、作品との出会いの中に生まれるものです。他者との交換によって生まれるのです。他者とは、あなたが簡単に理解することのできない存在です。同じ趣味を共有する友人との楽しい会話は、安らぎであり必要なものですが、「知」ではありません。私は今でも、大学の講義の中で先生が話したいくつかの言葉を覚えています。それは本を読んで得る知識とは違います、その言葉には、その言葉と格闘したその先生の人生の時間が流れている、生きた体験なのです。その言葉を理解することは未だに出来なくとも、心のどこかにずっと引っかかり続け、今も私に問いを発し続けています。答を出すことが「知」ではありません。例えばあなたの友人が作った作品を。あなたがまったく理解できないと感じた時、そこに「知」は発生するのです。「まあ、それは個人の趣味の問題だ」といってこの問いを解消してしまうと「知」は消えてしまいます。
かつての私のように、我々は気づかないうちに様々な情報や、習慣や、先入観や偏見に囚われています。私たちは自由なつもりでいて自由ではないのですが、私たちを縛り付けている様々な鎖を断ち切って、発想を飛躍させ自由にするのがこの「知」の働きなのです。

今このキャンパスに立つと、静かで平和な風景が見えますが、大学の外では、世界的な規模の経済活動がめまぐるしい速さで動いています。その嵐のような流れの中では、我々はすぐに眼に見える成果を出すことが求められ、次から次へと新しい命令に追いかけられます。 そのような流れの中では、我々は眼の前の出来事しか見えません。中間的で曖昧な場所である大学から見える風景というのがあると思います。 学長式辞写真 ここからはもっと遠くの世界まで見渡すことが出来るはずなのです。そこからは世界のめまぐるしい活動が、決して人間の幸福のために動いているのではないことが見えるでしょう。

学生という存在は、これからますます重要になると私は思います。映画の世界で言えば、「学生映画」というのはひとつの差別用語、つまり未熟な映画という意味で用いられますが、そうではありません。学生映画こそ重要である。と私は思います。それは、現在の社会的な表現の多くが、短期的な成果を求められ、すぐに忘れ去られてゆくというサイクルの中で消費されてしまうからです。学生の存在は、そのような要請から自由であるといえます。だから、本当の意味で人間と世界の関係を考え、表現し、人間の体験や視点を変えるような創造の射程を持っているのです。学生は、社会へ出るための単なる準備段階ではありません。我々の営みは未来の価値を創造する可能性に開かれている。むしろ社会をリードする可能性を持っている。私はそう思います。

先ほど私は、大学の知とは他者との出会いの中にあると言いました。つまり大学とは「人」なのです。既にここに在って、あなたが入ってくるのを待っているような装置ではありません。人と人の関係が作り出すものです。つまりここにいるあなた方と我々がこれから作り出して行くものです。

ともに元気でクリエイティヴな東京造形大学を作ってゆきましょう。

東京造形大学学長 諏訪敦彦