Home > AGENDA
インターネットやモバイル・メディアの発達によって拡大を続ける現代の情報環境にあって、わたしたちは豊富な知識を手軽に獲得し、世界の急激な変化を素早く察知できるようになりました。しかし、その構造と機能はますます複雑化・高度化し、大小のミスやトラブルを生むだけでなく、ときには情報源の信頼性そのものに揺らぎを与えるような事態さえ起きています。このような時代にあって、メディアデザインの目的は、デザインの巧緻とアートの想像力を駆使して、現代の混沌とした情報環境に人間の尊厳を基軸的なモラルとするメディア文化を育むこと、そして、多様な価値観が情報の公共圏で共生するためのコミュニケーション・ツールを、人々の暮らしとそれを支える地域社会・行政機構・産業社会に向けて提案することにあります。情報環境を新たに設計する、あるいは既存の環境を改善するアクションとしてのメディアデザイン――この定義にしがたって、メディアデザイン専門部会は、研究活動や担当専攻領域のカリキュラムに反映するスタディ・アジェンダを共有しています。
DOWNLOAD 全文のPDFファイル(準備中)
メディアが発信する情報を受容者ないし消費者の立場で漫然と受けとめるのではなく、1)背後に潜む第2第3のメッセージを読み取り、さらには、2)自らのメディアを手にして主体的に情報を発信する……情報化社会を意識的に生きるためのこれら2種類の能力は、メディア・リテラシーまたは情報リテラシーと呼ばれます。例えば映像作品を制作したり自身のウェッブログを運営するときに必要なのは、後者の立場を保証する情報発信のスキルですが、メディアデザインの出発点は、むしろ前者の“メディアを批評的に読む力”の獲得にあるとも言えます。
すべてのメッセージは、物のようにただ“そこにある”のではなく、発信者の何らかの意図や期待から創出された意識の産物である以上、受信者への到達力を強め信頼を得るための様々な工夫が凝らされているはずです。そして、それらの生産的リテラシーの意図を解読するのが批評的メディア・リテラシーです。
したがって、格差が生じない公平・公正な情報環境を維持するためには、メッセージ効果を高める生産的ないし表現的リテラシーとメディアの振る舞いを見守る批評的リテラシー、この2つが相互に作用しあい、つねに力の均衡(情報の対称性)が保たれていなければなりません。対称性の破れが生じていずれか一方の力が他方に勝ってしまうと、社会資産としての情報環境への信頼性は著しく損なわれます。
note 1
メディア・アクティヴィズムの誕生
アメリカ合衆国との国境から50kmの範囲に国民の大多数が暮らすカナダでは、隣国からの電波の越境によって、独自の歴史をもつ多民族文化の根幹が揺らぐのではないかという政府の危機意識が支えとなって、すでに1980年代の中ごろからメディア・リテラシー教育を公教育のカリキュラムに加えています。また、1970年代初めのアメリカには、普及し始めた小型のビデオカメラを使って、貧困層や人種的マイノリティの置かれた状況、女性や同性愛者が受ける差別の実態、そしてベトナム反戦といった様々な社会的問題を取材し、マスメディアとは別のコミュニケーション・チャンネルで市民に問いかける“メディア・アクティヴィズム”の台頭がありました。メディア・リテラシーの2つの立場は必ずしも選択的なベクトルではなく、むしろ相補的な関係をひとつの主体の内部で結ぶべきであり、それはインターネット時代の現在でも基本的には変わりがありません。
視覚情報の伝達に限定された旧来の造形原理や各種のデザイン技法に加え、特に重要視する学習課題が“思考過程の表現”としてのプログラミングです。本格的なwebサイトやメディア・アート作品の制作にとって、各種のプログラミング言語の習得は必須ですが、同時に、そこで身につける“諸事象の関係を論理的に記述する能力”は、製品やイベントの企画・運営、出版編集など、抽象的な概念や輻輳する業務手順にかたちを与え、その意義を他者と共有する必要がある様々な仕事では必須のスキルです。
note 2
ゲーム・デザインと最適解予測のアルゴリズム
学生の課題研究から―-オセロとクロスワード・パズルを組み合わせたボードゲーム・ソフトのプロトタイピング。優位な配列規則の予測という、オセロの一般的な戦略だけでプレイしようとすると、偶然できあがったワードに相手(辞書をもつコンピュータが気づいた場合、その駒を裏返されてしまいます。当然、関係はvice versaです。穴居のところ、2つの推論過程を統合するためのアルゴリズムがみつからず、コーディングは未遂に終わりましたが、最適解予測のプロセスとしてのボードゲームのデザインに肝要なのは、合目的的なルール設計にあるのではなく、初期値としての各々の制約規則が、人のプレイによって自らの強度を増していけるような、コンテキストないしは“多様な局面の創出の可能性”にあるということをこの学生は学びました。最初の一手と王手とでは、同じ「歩」でも意味が違います。デザイン言語は、語彙と文法のたんなる活用条件ではなく、デザイニング・アクションに埋め込まれた無数の“シーン”そのものなのです。
地球温暖化の問題は言うまでもなく、自然環境であれ社会的環境であれ、個人や集団の活動が環境とのあいだにめぐらす相互作用の網目に、今、様々な規模のほころびが生じ始めています。電車運行の遅延で通勤通学客が苛立つのは、不意に自分が置かれた状況がつかめない、要は近い将来を予見するための全体的かつ直感的な情報を得られないからです。このとき、例えばすべての電車の位置が刻々と変化して表示されるような電子路線図が、ホームや車内にあったらどうでしょう。メディアデザインは、種々のメディアの振る舞いを“情報システムの生態学”という視点から観察・分析し、生活、学習、仕事といった個人の生の営みと互酬的な関係にある、“より大きなシステム”の変化を人々に気付かせます。
note 3
CO2濃度分布のアニメーション
日本の気象庁は、1985年から2007年までの大気中の二酸化炭素濃度分布を3次元の地球図にマッピングし、可視化した静止画・動画のデータを、同庁のWebサイトで公開しています。同時に、それらの図像を、パラパラまんが式のフリップ・ブック(左右像で立体視可能)や地球儀のペーパークラフトとしても提供しています。地球温暖化の原因となるCO2濃度の上昇、その一般的な認識=常識を支えるのは、比較的単純な経年変化=悪化のイメージです。しかし、月単位の分解能をもつこれらの連続画像からあらためて理解できるのは、おもに北半球の植物が盛んに光合成する夏には濃度がやや下がり、冬から春にかけては上昇する…この周期性が、過去のどの年にも見出せることです。時間的に高い分解能をもつアニメーションの効果が、「地球の呼吸」という生態学的なサイクルについて、直感的な認識をもたらすのです。
家族から地域社会、国家、そして全地球のレベルに至るまで、様々な規模の集団が過去から大切に受け継いできた共通の記憶によって人々は結ばれあい、ときにはその絆を勇気にかえて危機を乗り越えてきました。しかし、市場経済のグローバル化と価値観の多様化がもたらした現代のライフ・スタイルは、リアルでローカルな集団的記憶を薄れさせ、それに根ざす個人のモラルにも軋みが生じています。さらに、インターネットは、自然の大地に縁どられた帰一の場所(実名をもつ家庭・地域・生産地…)に加えて、個人が同時にいくつもの仮想集団に帰属することを可能にします。メディアデザインは、そうした対面のコミュニケーションを前提としない、特定の関心事に集う刹那の匿名集団の活動をドキュメントするためのツールと、さらには、そこに記憶=歴史として蓄積される知的資産の供用の可能性を提供します。
note 4
300万人のユダヤ人の名前
2005年、ベルリンの市街地中心部に完成した「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」の地下には、「情報センター」という名称の施設があります。ナチによる民族浄化の犠牲となった人々の名前の記憶を通じて、ドイツという国家の歴史的な自己理解を普遍的なものにすることを目的として設置されました。そこには、イスラエルのホロコースト記念施設ヤド・ヴァシェムYad Vashemで登録・管理される、300万人以上の犠牲者に関するデータバースの端末があり、氏名や出身地から、その人がどの強制収容所で亡くなったかなどを調べることができます。また、ヤド・ヴァシェムの中央データベースPage of Testimonyからは、各収容所の収容者リストをはじめ、様々な種類のホロコースト関連書類を、インターネットを通じて検索し、そのコピー(PDF)をダウンロードできます。他者の名を記憶したり探すという行為は、自身の名と自身の生との結ぼれを介して共同体の歴史を想起する、最も初源的な出自の確認手段です。
なお、ドイツ連邦議会は、この施設に加えて、同じく差別によって虐殺されたロマの人々や同性愛者の歴史を記憶するため、追悼施設の建設計画をすでに議決しています。
デザイン言語という概念は、コミュニケーション過程での普遍的・論理的・形式的なフレームワーク(手順と規則を有限の要素で括りとれる事象)を扱うだけではなく、人の顔の表情や仕草、場の雰囲気とその質的な優劣など、言い換えるなら、従来のデザイン(とくに産業的・実務的な意匠設計としてのデザイン)が忌避してきた“個物の質とその感受にかかわる設計”へのチャレンジを宣言するものでもあります。
前世紀の初頭に綴りはじめられたデザインの歴史は、美意識という緩衝材をあらかじめ着地点に用意したうえで、普遍的な形質の真偽値をはじき出すこと、要するに正しいかたちと間違ったかたちを弁別する“美と用の二次方程式”を追い求める、見かけの華やかさとは裏腹に孤独なひとり旅だったのです。
しかしながら、美と用という観念が、古典的な美学上の問題ではなく資本循環の新しい潤滑剤として徹底して相対化される、いわば真性のポストモダン期にあって、特定の形質を反復再現できること(製品の量産)、対象の機能や振る舞いが観察できること(製品の同定と示差性)、構築した論理を明示的に他者と交換できる普遍形式を持つこと(図面の資産性)……等々の、これまでデザインの営為を支えてきた還元主義的・疑似科学的な与件は、今日、若い世代を中心にみられる自己参照的な需要動機とはもはや離反するしかありません。言い換えるなら、“個の内部で改訂し続けられる消費のモラル”……「何が市場に存在すべきかはわたしが決める」を前提に、「欲しくても買わない(そして/あるいは)欲しいものはわたしがつくる」さらには「欲しがる“わたし”への嫌悪」という、市場形成と消費行動を等価・等距離においた自前のモラルを前に、20世紀的な啓蒙・改革思想としてのデザインはほとんど無力なのです。
したがって、今日探求されるべきデザイン言語は、産業資本によってのみ規定されてきた生産と消費との距離を、脱産業中心主義的な別種のエコノミーによって計測し直すこと、個人と社会的組織双方のquality of life、その節理を見極めるための作法であると言えるでしょう。
ところで、20世紀の後半に論理学や生物進化学の分野に登場した“アブダクション”という概念があります。数学を頂きに置く自然科学のように、有限数の論理単位・操作子を駆使してなるべく多くのサンプル・データからYES/NO二元的に一般解を出すのではなく、“個物”つまりは“いま・ここにある事象”の総体を相手として、確率的なリスクを極小化した最適解を導くこと、ふだん人が感覚を頼りにその場で判断を下して行動するときに、からだ全体をつかってやっている自然体の判断、くだけた表現をするなら、「まあ、いいか…」のロジックです。新しいデザイン言語のエコノミーとは、おそらく、そうしたアブダクションの推論手続きによって、再現性のない事件や失敗、個人の習性・習慣、勘や経験則にもとづく判断…といった、これまでデザインの分野では顧みられることのなかった“生の全体性”を相手にする価値の共感覚なのです。
note 5
東アジアの棚田の水利システム
棚田は、日本、中国、フィリピン、インドネシアなど、東アジアのモンスーン気候帯に特徴する限界地農業のあり方のひとつです。農地経営の根幹を支配するのは、何百年にもわたって維持・改良されてきた複雑な水利システム。山の斜面を登る開田が、低地の田畑への用水供給にどのような影響を与えるか、その原理はシャンパン・タワーと同じですが、グラスのサイズすべて異なるだけではなく、シャンパンはグラスに吸収され、蒸発し、次々と成分も変化します。開墾の影響予測は、過去の開田における成否の歴史からアブダクトするしかない。生きた器官として互いにつながる一枚一枚の水田は、棚田全体のモナドロジーに与しているからです。
千年以上の歴史をもつとみられるインドネシア・バリ島の棚田では、スバックsubakと呼ばれる水路ネットワークの各要所に位置する“水の寺院”が、下流域への水供給の決定権を持ち、同時に上流下流の寺院間のネゴシエーションによって、スバック全体への公平な灌漑が保たれています。1970年代から棚田と民族文化の関係を研究してきたアメリカの人類学者スティーブン・ランシングは、システム生態学者のジェームズ・クレーマーとともに、宗教共同体が築いたこの節理のシステムが、雨期の半分しか河川に十分な水量がないという、バリ島の自然環境の特徴を最大限に活かすものであることを、コンピュータ・シミュレーションによって明らかにしました。
写真:中国雲南省(上)、バリ島(下)